1番霊山寺〜2番極楽寺〜3番金泉寺〜森本旅館(5番地蔵寺の門前)
歩行時間 14:10〜17:00
歩行距離 10キロ
一番霊山寺はそこそこ参拝者がいて賑わっていたが、一番札所の割には思っていたよりは境内は狭く、本堂も大きくなく、雑然とした寺という印象であった。
先程の店の男性に教えてもらった通り、ロウソクを左右に1本づつ、線香を3本立て、お経の本を読もうとして、本を先程の店で買い忘れたことに気が付く。
納経所は本堂内の右側にあり、靴を脱いで上らねばならないので、「面倒だな」と思った。何しろ登山靴故、脱いだりはいたりするのが簡単にはいかないからだ。「これから先、各納経所がこうだったら厄介だな」とも思った。納経料300円支払い、住職に、納経帳へ墨で達筆な草書体で書いてもらい、お姿をもらう。
住職に
「遍路の記帳ノートがあると聞いたのですが・・・」と尋ねると、奥からノートを持ってきた。私はそれに日付・住所・氏名を記す。
納経所を出ると、本堂内本尊の前で、威風堂々とした遍路姿の二人連れの年配男女が、良く響く声で朗々とお経を唱えており、その迫力に圧倒されるも、感心して暫し見とれる。
大師堂に来て、本堂で納札を入れ忘れたことに気が付く。「失敗、失敗、大失敗」。
先程の店に寄り、お経の本を買い求めてから、交通量の多い広い県道を歩き、数分で次の札所に着く。
2番極楽寺は参拝者が少なく、境内は静かであった。納経所の女性の達筆に感心。崩し過ぎで、読めないので、何と書いたのか説明してもらう。次の3番札所の道順を聞くと、私が思っていた道筋と違うので、何度も確認するが、嫌な顔をせず、親切に教えてもらう。「感謝、感謝、大感謝」。
教えてもらった道はへんろ道であるが、墓場を抜けた後は、車が余り通らない旧道が交通量の多い広い県道と平行して山側にあり、この道を西に向かって歩けばよかったので、分りやすく、歩きやすかった。時速5キロぐらいのペースで気持ちよく歩く。「爽快、爽快、大爽快」。
3番金泉寺を参拝し終えて、時計を見ると、16時ちょっと前で、17時に宿に着くぎりぎりの時間。予定通り4番大日寺は明日にまわして、宿に直行することにした。
背中に背負ったザックの重みでザックの紐が肩に食い込み、若干肩が痛かったが、足の方は快調で、利き腕の右手ばかりで杖を操作していることに気が付く余裕があった。「ゴルフ上達のためにも左手を強化しなければならないな」と思い、持っていた杖を左手に持ち替え、操作するが、何となく違和感がある。「旅が終るまでには右手と同じように上手く操作できるようになればいいな」と願った。
夕暮れの時の17:00ジャストに10日前に予約しておいた5番札所の門前の森本旅館に着く。
森本旅館は、私が通された部屋は以前のままだったが、風呂とトイレは改装され、きれいであった。客は私を入れて二人のようだ。
17:30に風呂に入る。湯船に手足を思い切り伸ばし、至福感に浸る。自宅ではいつも烏の行水で、こんなにゆっくり湯船に浸かることはなかったことだ。
18時に夕食が準備してある部屋に入ると既にも一人の客は食事中であった。その方に断り、ビールを注文。このビールが殊のほか美味い。こんなに美味いビールを近年飲んだことがない。食も進む、結構品数があったが、ドンドン平らげてしまう。ご飯も大盛り2杯も食べる。
その方の頭は丸坊主であるが、一見してお坊さんらしく見えなかったが、京都在住で私より1歳年上の寺持でないお坊さんであることが自己紹介で分かった。そのお坊さんは
「今は高野山でさえ、座禅修行が一般的になってしまったが、本来の修行は歩くことにある。歩けばいろんなことに感謝する気持ちになり、又、心が無となる」と言う。私が
「明日はどこまで行かれるのですか?」と聞くと、
「足を痛めてしまい、明日は休養する」と答える。歩くことに慣れていない私のような者と違い、「口ぶりからして歩く修行を積んでおられるはずの方が足を痛めるぐらいだから歩き遍路は想像以上にきついことなのか」と足のことが心配になる。
19:30に部屋に戻り、今旅用に購入したデジカメ、ザウルスに加えて携帯電話の電池に充電。ザウルスを使って、インターネット送信をするために、道中雑感をザウルスに入力するが、慣れていないため入力に手間取り、22時になってしまったので、諦めて寝ることにする。朝弱い私には辛いことだが、5:45に目覚ましをセットし、床に入る。しかし、疲れているはずなのに、興奮しているのか、なかなか寝付かれない。暫く悶々としたが、寝られそうにないので、仕方なく起き上がり、やりかけの道中記をザウルスに入力し、ネット送信を終え、23:30頃やっと寝入る。
11月2日(金)2日目 晴れ
5番地蔵寺〜4番大日寺〜6番安楽寺〜7番十楽寺〜8番熊谷寺〜9番法輪寺〜10番切幡寺〜民宿坂本屋
歩行時間 6:45〜15:30
歩行距離 22キロ
5:45目覚ましの音で起床。やはり朝の早起きは苦痛。本来の夜型人間に加え退職後は更にそれがひどくなってしまったので、切り替えるのが大変。暫くはどれほど歩けるかといことよりもちゃんと早く起きられるかどうかということが当面の課題かもしれない。
6:30に朝食。朝ご飯が美味い。よく腹に入る。ご飯2杯いただく。
宿泊代6,500円(ビール代1本500円込み)の支払を済ませ、宿にザックを置かせてもらい、6:45出発。
宿の前の5番地蔵寺に行く。7時前だったので、参拝一番乗り。境内は綺麗に掃き清められており、土の所は箒の跡がついていた。納経所はまだ開いていなかったので、本堂の裏手の方にある奥の院の五百羅漢を見学。
5番奥の院五百羅漢
4番大日寺までは1.8キロの道程。やや上りの広い舗装道路を北に向かう。車は殆ど走っておらず、朝の清々しい空気を胸一杯吸いながら気持良く歩く。ザックを担いでいないので、スタスタ歩ける。今日は、お経は上げようと思い、歩きながらお経の本を予習する。
お寺には既に車遍路さんが3組来ており、その中に昨日も見かけた両親に娘さんらしい3人連れの遍路さんのリズミカルな読経に聞き惚れる。私もそれを真似てお経を唱えるが、上手くいかない。ただ読んでいるに過ぎないが、そのうち格好がつくだろうと安易に考える。
宿に戻り、ザックを受け取り、担ぐが、昨日よりは重く感じる。ザックの重さがこたえるような予感がする。
6番安楽寺、7番十楽寺の参拝を済ませ、8番熊谷寺に向かっている途中で、ビニールハウスの店の中から私と同年配ぐらいの男性が飛び出してきて、
「お接待したいので、寄っていきませんか」と声が掛かる。私は
「申し訳ないが、急いでいますので・・・」と答え、通り過ぎようとすると、
「それではこれでも飲みながらお参りしてください」と、今旅、始めてオロナミンのお接待を受ける。
8番札所へは地図に従い、その方向に歩いていたが、途中、道に迷ってしまう。へんろ道を表示する赤色の標識が見当たらないので、「標識を見落とした」と思ってしまい、そのまま直進すればいいものを、あせって右折したためだ。10分ぐらいのロスに過ぎないのに大分ロスしたような思いにかられる。
要所要所にへんろ道の赤い標識があれば安心だが、それがないと「道を間違ってしまったのではないか」と思い、不安になってしまう。「今後は前をよく見て歩くことにしよう、そして、標識がないということは真っ直ぐ行けばいいということだと受け止めることにしよう」と思った。
8番札所を打ち、時計を見ると、12:40頃になっていた。朝しっかり2杯食べているせいか、お腹は余り空いていなかったが、近くのうどん屋に入る。門構えは立派で、きれいそうな食堂に見えたが、店内に入ると、カウンター・テーブルの上には食べ終った食器などが放置されたままであり、雑然とした店であった。出ようかと思ったが、うどんを注文。
店を出て20メートルぐらい行ったところで、金剛杖を店の入口に置き忘れたことに気が付く。「杖を体から離して置くからで、今後は必ず体、特にザックの側に置こう」と思った。
9番法輪寺でも大師堂に来て、本堂でお経を唱えることに気を取られ、1番札所より続けてきた老母と知人と斉藤君の病気平癒祈願をし忘れたことに気が付き、再度本堂に戻り、改めて祈願を済ます。
10番切幡寺にも足取り軽く、時速5キロぐらいのペースで向かうが、やはりザックの重みが肩にのしかかる。背筋を伸ばすと少しは楽になるような気がするが、「山登りでは大変だろうな」とやや不安になる。今のところ懸念の足に豆らしきものができそうな気配はないのがせめてもの救いだ。
今夜の宿として2週間ぐらい前から予約しておいた民宿坂本屋に予定よりかなり早い14:15頃に着いてしまう。宿にザックを勝手に置かせてもらい、10番札所に向う。やはりザックがないと身が軽い。足がスキップするような感じで歩ける。10番は標高165メートルの高いところにある。境内に入ると直ぐ石の333階段が待ち構える。ザックを担いでいないので、途中までは全然こたえなかったが、最後の女厄33階段、男厄42段の階段は勾配がきつく、右手で手摺を掴み、左手で膝を抑えて、上る。上り切ったら流石に膝がガクガクしていた。
10番切幡寺333階段前の私
本堂、大師堂を参拝し、納経所の方へ行こうとした時、ベンチに腰掛けていたおばさんが立ち上がり、
「帰りも階段を下りんなさるのか」と聞くので、
「もう階段はこりごり。帰りは坂道を下りることにします」と答えると、
「じゃあ一緒に下りましょうか」と言うので、世間話をしながら一緒に坂道を下りる。舗装の坂道も結構勾配であったので、歩きにくい。おばさんは健康のため毎日上り下りしているだけに、慣れたものでバックで坂を下りる。
山門から50メートルぐらい下った所でそのおばさんが
「ところでさっきから気になっているんだが、納経はすましんさったのか?」と聞く。しまった・・・納経所に行く直前におばさんから声を掛けられ、納経してもらうのをすっかり忘れていた。何とチョンボをしたものだと悔いたが、「予定より早く着き、私に余力があるので、お大師様が私にもっと歩くように試練を課したのだ。これも修行」と思い直し、元来た道を引き返す。今度は、階段は避け、舗装された坂道を上り、納経を済ますが、流石に疲れる。さっきおばさんが腰掛けていた納経所の側のベンチに腰を下ろし、自販機のドリンクで喉を潤す。
今日は3度も失敗する。「慣れてきて、注意力が散漫になったのかもしれない」と反省する。
坂本屋は部屋数の多い宿で、多分団体客も入れているだろう。家の中が迷路のようになっており、「火事でも起きたら大変だな」と思われるようなつくりだ。私が通うされた部屋は4.5畳ぐらいの広さでお世辞にも綺麗とはいえない。座って一服していると11月だというのに山の近いためか、蚊がいる。まつわりつくので、気になって殺してしまう。札所のあちこちで当宿の「テレビ、冷暖房付、綺麗」の宣伝看板が立っていたが、確かにテレビ、冷暖房付だが・・・看板に偽りありという感じ。浴衣がないので、
「浴衣は?」と聞くと、
「100円戴きます」と言われたのには参った。洗濯機使用代100円を支払い、洗濯を済ませる。夕食前のビールは格別に美味かったが、料理の方は品数は多いが、味は今ひとつ。特にご飯が古米みたいで不味く、2杯食べる気がしない。また、箸が塗り箸で、それも塗りがはげたものばかりで、不潔極まりない。予約した時、
「相当早くからの予約なので、直前にまた連絡してください」という応対だったので、「しっかりした宿だな」とその時は思ったが、これも「商売上、部屋に空きがないようにするためのことだったのかな」と勘ぐってしまう。昨夜の宿とはえらい違いだ。
客は八王子から区切り打ちで来たという同年輩ぐらいの人と私の二人。その方は時間節約のためローソク、線香を上げない、白衣も着ない。歩くことが目的の私以上に、歩くことに徹しているようだ。食事中、蚊がまとわりつくので、また、思わず両手で叩き、殺してしまう。そうだ、道中はしてはいけない十善戒があり、殺生してはいけないことに気が付く。「明日、参拝の時に殺生のお詫びをしよう」と思った。
携帯電話をかけるが、電波の通じが悪く、会話がとぎれとぎれになる。
寝る前に金剛杖を玄関の傘立てに置いたままにしていることに気が付き、慌てて階下に杖を取りにいく。杖の先を洗い、非礼を詫びて、上座に立てかける。
本当に今日は失敗だらけだった。「失敗、失敗,大失敗」。
10:00に床に就き、今日は直ぐ寝入ることができた。
11月3日(土) 3日目 雨
民宿坂本屋〜11番藤井寺〜宿坊庵水庵
歩行時間 7:10〜12:25
歩行距離 15キロ
5:45に起床。6:30朝食。やはりご飯が不味く、1膳しか食べられない。宿泊代6600円(ビール代1本600円込み)を支払い、玄関に出てみると、そんなにひどくはないが、雨が降っている。急遽、雨仕度(ゴルフ用の上下の雨具着用、ザックにカバー)して、7:10に出発。
今日は、札所の中でも最大の難所である標高700メートルの12番焼山寺への険しい山登りに挑戦することになるが、山登りに自信のない私は大事を踏んで一気に登らないで、真中の位置にある標高500メートルの柳水庵で泊まる余裕のある行程にした。この判断は雨となったことからも結果的には良かったと言える。
11番藤井寺は南の方角にあり、吉野川を越えねばならないので、そちらに通じている1本道を歩く。15分ぐらい歩いたところで、東西に走っている交通量の多い広い道路と交差した四つ角にぶつかる。狭い道を直進するのか、左折して広い道路を行くのか、はたと悩む。
昨日7番札所でもらった一枚刷りの地図は左折するようになっていたので、左折し、50メートルぐらい歩くが、「この地図は車用ではないか」と思い、信用金庫の軒下を借り、へんろ道保存協力会作製の地図で確認する。案の定へんろ道はさっきの交差点は直進することになっている。引き返し、直進の道に入ると、電柱にへんろ道を示す赤いシールが貼ってあり、ほっとする。車に水しぶきをかけられなくてすむし、何か得をしたような気持ちになる。「正解、正解、大正解」
その後はへんろ道の赤い標識・シールを見落とさないよう注意して、雨ながら前をよく見て歩く。
吉野川の堤防に辿り付き、川島橋を渡る。この橋が「潜水橋」と言われる意味が分かった。「橋脚が短く、橋が堤防より下にあるので、増水したら橋が水没するが、その場合はこの橋は渡れないので、どうするのだろうか」といらぬ心配をする。吉野川は川の中に島があるほど確かに広大だった。
吉野川の潜水橋 吉野川の潜水橋
住宅街を抜けていくへんろ道は迷いやすい道であったが、要所要所にへんろ道を示す標識があったので、迷うことなく、2時間で11番札所に着く
雨は降り止まず、「こんなコンデションの中で88ヶ所中最大の難所といわれる焼山寺への山道を登れるのだろうか」と心配になる。住職に聞くと
「登れるが、滑らないよう気をつけるように」と言う。
山門前の売店で、昼食用にふかしたサツマイモとウーロン茶を買い込む。子供の頃、かじったニッキの飲料水が店先にあったので、懐かしくなり、買って飲む。製造元を見ると高松市にある明治飲料という会社。店のおばさんに
「子供の頃、ニッキの木をかじったことがあるが、この辺ではニッキの木があるのですか」と尋ねる。おばさんは
「ありますよ。ニッキは木の根ですよ」と教えてくれる。ニッキは木の根っ子だったのかと知る。おばさんに
「これから焼山寺への山道を登るのだが、大丈夫かな」と尋ねる。おばさんは
「山を3つ越さねばならない。柳水庵はその真中にあるから山を1つ半こえることになるが、ゆっくり行けば大丈夫でしょう。朝早く、若い女性が登っていったよ」と言う
意を決して10:00に本堂の横から昼間だというのに薄暗い焼山寺への山道に入る。
12番焼山寺への登山口
山道沿いに1、2メートル間隔で88ヶ所札所の石仏があるところを過ぎると、険しい急斜面の道に入る。道幅は人一人がやっと通れる程の広さで、真中は雨水が流れ落ち、溝のようになっている。両側の高いところを選んで登って行く。ところどころに長さ30〜40cmの青黒い生き物がかすかに動いている。最初、何物と身の毛がよだち、思わず立ちすくむ。この生き物が私の大嫌いな蛇ではなく、本に載っていた大ミミズと分り、ほっとする。「彼らも棲家が雨水で水浸しになり、生死を賭けて地表に出てきたのであろう」と同情するが、それでもグロテスクで何とも気持が悪い。その大ミミズを踏みつけないよう、また、滑らないように気をつけながら登る。ザックの紐が肩に喰い込み、肩が痛い。ザックを下ろし、休みたいが、雨の中、ザックを置けるようなところはない。仕方なく、少し登っては杖の先に両手掌を置き、その上に顎を乗せて、小休止しながら登る。
悪戦苦闘したものの意外と早く12:45に今夜の宿である柳水庵に到着。年老いた大黒さんが
「風呂は主人が沸かすことになっているのですが、生憎、主人は外出しているので、風呂の準備はできないが、帰って来たら直ぐ風呂を沸かしますから、それまでストーブで温まっておいてください」とストーブに火を点けてもらう。パンツまでびしょ濡れの下着を着替え、冷え切った身体を温めるとともに、カバーを掛けたにもかかわらず濡れてしまったザックの中の本と、ズタ袋の中の地図なども濡れてしまい、乾かす。幸いに納経帳はビニールのカバーがしてあったため、濡れなくてすんだが、濡れておれば墨がにじみ、台無しになるところであり、間一髪、難を免れた。
14時頃、今夜、同宿の年配の男女の方が見える。横浜在住の小林さんとおっしゃるご夫婦で、今回は逆打ちで焼山寺から下りて来られたこと、ご主人は65歳で既に5回ほど回っておられ、70歳までに10回は回る積りであること、奥さんは糖尿病の持病があるが、遍路をしていると体調が良くなったことなどベテラン遍路の小林さんよりいろいろお話をを伺う。庵のご主人が帰ってこられ風呂が沸く。小林さんに先に入ってもらい、その後風呂をいただく。何と昔懐かしい鉄製の五右衛門風呂で、ここの名物らしい。奈良の学生がこの風呂に魅せられ、二度泊まったといういわくつきの代物。風呂から上ると、ご住職のご主人より
「今夜、宿がなくて困っておられるご夫婦の方がいるので、相部屋でお願いできないか」と頼まれる。困ったときはお互い様なので、気持ち良く了承する。(実は、ご主人がその方からの予約の電話を取り次いだ時、日にちを間違えてOKしてしまったことが後で分かった)
本堂の部屋と隣の部屋の2部屋に5人泊まることとなり、賑やかな夜となった。後から来られたご夫婦は山根さんとおっしゃり、長岡京市でご商売をなさっておられ、ご主人は私と同い年の温厚な方、奥様はいかにも商売人の奥さんがぴったりの方で、明朗でお話好きな方であった。私の老母と同じ年の大黒さんを交え10時過ぎまで会話が弾む。
11月4日(日)4日目 曇り
柳水庵〜12番焼山寺〜13番大日寺
歩行時間 6:45〜17:00
歩行距離 28キロ
5:30起床。山根さんの奥さんに握っていただいたおにぎりとゆで卵をザックに入れ、皆さんより一足早く6:45出発。
大黒さん、小林ご夫妻、山根ご夫妻
昨日のように雨は降ってはいないが、外はまだ薄暗い。平らな林道を暫く歩いた後、いよいよ最初の登りにさしかかる。昨日のきつい山登りに体が慣れたのか、そんなに息が切れない。又、ザックの重さも気にならない。これは小林さんの奥さんに教えてもらった通り、肩の上にパットの代わりにタオルを折って乗せ、その上にザックの紐をかけたので、肩の負担が軽くなったのかもしれない。昨日のようには気味の悪い大ミミズも雨水が引き、地中の棲家に戻ったのか、そんなには地表に出てきていないので、歩きやすい。それでも急斜面の登りでは息が切れ、何度も小休止しながら登る
意外に早く山を登り切ったと思ったら、そこは標高700mの12番焼山寺境内の前であった。普通3時間はかかると言われているが、何と2時間5分で到着。住職、茶店のおばさんから「健脚ですね」と言われ、若干いい気になる。おばさんより
「これでもかじりながら歩きんさい」と酢橘の接待を受ける。
次ぎの13番大日寺に向け、下りの山道を下りながら、
「坂本屋は皆さんがひどい宿だと言っている。評判が良くない」とのおばさんとの会話を思い出し、「どうして宿の悪口を言ったのかな」と反省した丁度その時、タイミングよく濡れ落ち葉に足をとられ、ズルズル滑り、尻餅をつく。「十善戒の禁を犯したからバチが当たったのかな」と一瞬思った。
玉ケ峠越えのルートを歩いていると、峠の手前2キロぐらいの所で、首輪をした一匹の白い犬が尻尾を振り、近寄って来る。私をまるで先導するかのように付かず離れず時折、振り返りながら私の10mぐらい先を行く。試しに私が立ち止るとその犬も立ち止る。
峠の所にお堂があったので、昼時でもあり、そこの縁側に腰を下ろし、お握りを食べることにした。犬にも分けてやろうと思い、声を掛けると犬が戻って来た。一つの握り飯を半分分け与え、一緒に食べているところに地元の人らしきおばさんが近寄って来て、
「当番でお堂の仏様のお世話をしているんですよ。遍路さんが泊まれるようにとお堂の中は畳にしたんですよ」と言う。縁側を借りていることの礼を述べ、
「この犬は私にずっと付いて来るのだが、首輪があるので、飼い犬だと思うが、どこの犬かご存知ありませんか」と尋ねるが、そのおばさんは
「よくなついていなさるんで、お宅さんの犬と思っていましたよ。何処の犬か知らない」と言う。
そのおばさんより1000円のお接待を受ける。大金なので一旦はお断りしたが、有難くいただくことにした。おばさんと犬を記念写真に収め、写真の送付先を聞き、おばさんと別れる。
私を先導した白犬
暫く歩いていくと人家が見えてくる。相変わらず私の先をいっていた犬は崖下の畑の方に曲がり、私の前から姿を消す。
「自分の家に帰ったのだろうか?或いは大師様の化身だったのだろうか?」と思った。
2キロ余りの犬と私との束の間の触れ合いであった。おばさんにしろ、犬にしろ、一期一会の出会いと別れであった
犬と別れた後は、舗装された下り坂の村道を周りの山の景色を眺めながら、ぶらぶらと歩いて下りる。村道から県道に出て、少し川に沿って歩くとへんろ道の赤い標識がある。その標識に従って川を渡り対岸に行き、直ぐ川に沿って舗装された道を歩くときつい坂道となり、それを下って、橋を渡り、元の県道に出る。距離にして300mぐらいだったと思うが、「何故この道がへんろ道なのか?」と疑問に思った。景観がよいわけではないし、道は舗装され、その上きつい坂道で遠回りをしたように思えたからだ。大師様が通った道なら意味はあるが・・・。
本名の辺りで道路地図を眺めていると、横合いの道を下りて来た、ライトバンを運転している中年の女性から
「広野まで行くので、送りますよ」と声がかかる。
「有難うございますが、歩いていますので」と丁重に断った積りだが、その女性は無言で、車は走り去った。折角の好意を無にし、気を悪くさせてしまったのかとこちらが何か悪いことをしてしまったような気になる。
焼山寺の険しい山登を経てきたにもかかわらず足の疲れを感じることなく、快調に飛ばす。
16:45頃、13番大日寺に着く。
参拝を済ませ、本日10時過ぎ予約した、寺の隣の旅館かどやに入る。一見して旅館らしい旅館であった。食事は皆と一緒でなく、珍しく部屋食であった。前日は乾燥機で乾かしただけだったので、洗濯機で洗濯を済ませ、21時に就寝。
11月5日(日) 15日目 晴れ
旅館かどや〜14番常楽寺〜15番国分寺〜16番観音寺〜17番井戸寺〜18番恩山寺〜19番立江寺
歩行時間 6:45〜16:00
歩行距離 31キロ
5:30起床。1階食堂で朝食を済ませ、宿泊代7600円(ビール大1本込み)支払い、6:45出発。
朝の清々しい空気を胸一杯吸いながら気持良く歩く。足取りは軽い。朝食時、一緒であった私と同年代ぐらいの男女の遍路さんを「お先に」と声を掛け追い越す。調子よく歩き過ぎ、道を間違えたのか、500メートルぐらい行ってもへんろ道の赤い標識が出てこない。道を聞こうにも人はいないし、人家も近くにない。やっと信号待ちの軽トラックを止め、道を聞く。引き返す途中に先程の二入連れの遍路さんに出会う。昨日、この辺りの札所はお参りを済ませたので、今日は徳島の中心街の寺に行くのだという二人に、14番常楽寺への道を教えてもらう。
14番から17番井戸寺はいずれも徳島市内で、そう遠くないところにあったので、効率よく参拝できた。山にある札所と異なり、市内にある札所は総じて境内も本堂も大きくはなかったが、14番は本堂の前に岩盤の断層が地表に剥き出しになっている変わったお寺だったし、17番は境内が良く掃き清められ、トイレも掃除が行き届き、清潔であった。
18番恩山寺までは18キロあり、徳島市繁華街を抜けるルートと地蔵峠越えルートとあり、どのルートで行くか迷っていると、自転車を止め、話し掛けてきた男性は
「車が少ないのは峠越えだ」と言うので、峠越えで行くことにする。途中へんろ道の赤い標識があり、車道から山道に入り、坂道を登って行くと斜面には上の車道から捨てられたゴミが散乱しており、まるでゴミ捨て場の中を歩いているようなものだ。「どうして日本人はこうもマナーが悪いのだろうか」と憤りを覚えるとともに「どうしてこんな道をへんろ道とするのか」理解できなかった。その後は車道を歩く。車は殆ど通らず、聞こえてくるのは鳥のさえずりだけ。鳥の鳴き声を聞き、木々と草花を鑑賞しながら歩いていると、不思議と私が好きな西行の歌
「花に染む 心にいかで残りけむ 捨てはててきと 思うわが身に」
が自然と口からついてでる。西行にしろ、芭蕉にしろ、山頭火にしろ歌人は旅する人が多い。彼等はどんな境地の時に歌を詠ったのだろうか。
長時間歩き続け、やっと18番札所に着く。山門から本堂までは登りの坂道できつかったが、焼山寺の険しい山登りなど連日の鍛錬効果が出てきたのか、日毎に脚力体力が増してきているように思った。
16:00に今夜の宿でもある19番立江寺に着く。
宿坊は新しく設備も良かったが、気配り・サービスは今ひとつ。風呂にはいつから入れるのか、食事はどこでいつからできるのか、寝巻きはどうなっているのかなどさっぱり分からない。「人手が足りないのだろうが、それならそれで紙に書いた物を渡すなりすれば分かるものを・・・」と工夫のなさに苛立ちを覚える。早く着いたので一番風呂で独占し、ゼット噴射で足を丹念にマッサージする。
夜の勤行が始まることを告げる鐘の音が聞こえる。既に寝巻き姿なので今更着替えるのは億劫であったが、折角の機会でもあり、見学方々出席してみようと思い、服に着替え、部屋の外に出る。バス遍路の30名ほどの団体客が白衣・輪袈裟の正装で数珠を持ち、廊下に溢れている。こちらはラフな格好であり、こんな格好で出るのは気が引けたが、団体客の後ろの方に座り、見学。薄暗い部屋での護摩祈祷であったが、火炎と読経の迫力に圧倒された。
読経を聞きながら、そうだ、般若心経は2拍子でやればいいのだということに気が付く。明日からは上手く読経できるような気になった。続いて本堂でお勤めがあるとのことであったが、私はここで失礼し、夕食の部屋へ行く。食堂の配膳から個人の客は私の他は3組程であった。
相変わらずビールが格別に美味く、食事もおいしい。
このところの日課でもあるが、9時前にNHKの天気予報とニュースを聞く。こちらに来てから新聞は読んでいないし、テレビも天気予報とニュース以外は見ていない。今の私には俗世間のことはどうでもいいのだ。明日もいい天気だというニュースに満足し、就寝。
11月6日(火) 6日目 晴れ
19番立江寺〜20番鶴林寺〜21番太龍寺〜民宿龍山荘
歩行時間 6:45〜15:40
歩行距離 25キロ
5:40起床。下半身が重く、肩が若干張っているようだ。昨日、風呂のゼット噴射でマッサージし過ぎたせいなのだろうか。それとも疲れが出てきたせいなのだろうか。
朝食を済ませ、6:45に出発。
ザックを担ぐが、意外に肩は痛くない。足取りは昨日までのように軽くはないが、朝の清々しい空気に触れながら歩くのは気持ちが良い。15分ぐらい歩いた頃、20メートルぐらい先の横道からランドセルを背負った小学5、6年生ぐらいの女の子が出て来て、私の前方をスタスタ歩いて行く。「こんな早い時間に学校に行って何をするのだろうか?」と思いながらその後を行く。追い越す積りはなかったが、その女の子との距離はむしろ離れていっているようだ。そのことでやはり今日の私の足取りは重いことを知る。しかし、今日は宿の関係で十分余裕のある行程であり、ゆっくりとしたペースで歩く。
標高550mの20番鶴林寺まで4キロ弱のところに至ると、山の麓のミカン畑を抜け、山道に入る。きつい坂の山道を登っていく。これが焼山寺の山道に負けて劣らず予想外にきつかった。麓で自動販売機の缶コーヒーを飲んだところなのに、喉が渇き、水呑大師堂のところで山水を今旅、始めて飲む。
水呑大師堂
車道に出たので、「境内が近いのかな」と思ったが、引き続き、傾斜のきつい山道を1キロぐらい登っていかねばならなかった。余程、「車道を行こうか」と思ったが、これも修行と覚悟し、小休止してから再度、山登りに挑む。又、車道に出たので、「やっと参道に出たか」と思ったが、寺まで400メートルの標識が出ている。気を取り直し、坂道を登る。山道は土砂崩れ防止のため枕木を埋め込み階段状になっているが、この人の手が加えられた道は段差があり、足を上げながら歩かねばならないので、大変つらい。苦労してやっと20番札所に到着。
納経所の女性は、若大黒さんか、お嬢さんか分からないが、感じのいい女性で、目がぱっちりで、色白。私が以前よく行った居酒屋の慶美ちゃんに良く似ていて、最初、見た時、びっくりした。若いのに達筆な筆使いに感心する。「3日の雨の時は、山道は上から雨水が流れ落ち、通行不能でした。今年の猛暑では歩き遍路さんで倒れられた人がいたんですよ」などと話してくれる。
20番鶴林寺納経所の三舟さん
境内の案内板には
勝浦町は阿波ミカン発祥の地
勝浦川はアユで有名
などと紹介してあった。道理で麓には酢橘畑でなく、ミカン畑が多かったわけだ。
次の標高490mの21番太龍寺へは大師堂前から山道に入り、山を下る。沢を流れ落ちる水音を聞きながら急斜面の山道を10分ほど下ると、なだらかな坂道となり、今度は山鳥のさえずりが聞こえ、一刻の安らぎを覚える。
1時間ぐらいかけて山道を下り切ると、車道に出る。出て直ぐ橋を越え、今度は中途半端に舗装されたなだらかな山道を登って行く。段々に深山幽谷の地に入っていく。全国最古の辰砂生産遺跡の「若杉山遺跡」の休息所で、これから挑むことになる急斜面の登りに備えて休息する。21番まで後2.2キロ。0.5キロ程登ってから急斜面を1キロ程、息を切らして登る。今日は2度目の急斜面の登りなので、つらい。その上、枕木を埋め込んだ階段状の山道は足に心臓にもこたえる。
私は登りながら「何度も遍路をしている人は如何なる精神力をもっているだろうか?私はそんな人の足許に到底及ばない。私にはこんな辛い思いまでして再び遍路をする気力はない」と思った。
重い足を引きずりながらフラフラになって、やっと21番に到着。納経所の前のベンチにザックを置き、喉の渇きを癒すため茶店に直行し、ウーロン茶を飲む。また、お腹の足しにカップヌードルを食べる。
本堂は高いところにあり、茶店の前から急傾斜の長い階段を上っていかねばならない。新しく造られた階段は御影石のように石でスベスベしており、滑って墜落しそうだ。「落ちれば一巻の終り」と思うと足がすくむ。疲れ切った体には上ることだけでも大変なのに、後ろに引き倒されるような感じがして、恐怖心に駆られる。今旅では境内の急斜面の長い階段を上ることが多い。何度か経験するうちに慣れるどころか、急性高所恐怖症になってしまったような気がする。
21番太龍寺本堂への急勾配の階段
参拝を済ませ、おみくじを引く。何と一番大吉。こんなおみくじを引いたのは始めてのことで、「一番とはどういう意味なのだろう?何番まであるのだろう?」と思った。当然のことながらいいことばかりが書いてある。
21番札所を参拝が済むと今日の行程は次の札所との中間地点にある宿である民宿龍山荘に行くだけだ。旅立ちの2週間前、27キロ先まで宿がないので、当初の宿は同じところにある民宿坂口屋を予約していた。予想外に足が運び、日程が一日早まったので、昨日、急遽、宿へ一日繰り上げて欲しいと依頼したが、満室だというので、キャンセルし、運良く空いていた龍山荘に切り替えたもの。龍山荘がとれなかったら、11キロ手前の20番札所の宿坊を抑えるしか術がなく、野宿をしない限り、時間を無駄にするところであり、ラッキーであった。
宿まで4キロ余りであり、時間はたっぷりあるので、ゆっくり行く。下りの山道もセメントで固めてあり、歩きにくい。登りで酷使した膝は棒のようになっており、膝を痛めないよう注意しながらソロリソロリと下りた。
途中、昨日から電車を活用しながら区切り打ちをしているという神奈川県在住の私と同年輩ぐらいの遍路さんに出会う。宿も同じあり、世間話をしながら宿に向かい、15:40頃、宿に到着。
ロビーに俳優の萩原健一を囲んだ写真が飾ってある。宿の主人は
「ショウケンは通しで3回、回ったらしいが、この写真はその前に来た時に撮ったもので、4日目でここに来た」と話してくれる。私が厳密には5.5日目で、結構早いねと言われていたので、4日目とは大変なペースであり、驚く。
「丁寧にお参りしていないのでは」と言うと、主人は
「そんなことはない。ただし、ザックは次の宿に送り、軽装で回っている。他に4日目でここについた者が数人いる」と話す。
食堂は1階ロビーの横にあり、バス遍路の団体客が20人程と個人の遍路さんが6、7人で、民宿にしては結構な人数。「近くに宿がないので、ここと坂口屋に集まるのだろう」と思った。夕食は今までで一番のご馳走で美味しい。私達の食卓は途中一緒になった神奈川の遍路さん(名前が渡辺さん、住所が厚木市、62歳、設計の自営業)と奥田さん(奈良市、40歳前後、50日ぐらいかけて通しで回る由)と後藤さん(大阪市、区切り打ち)の4人で、渡辺さんとは食後も世間話に花を咲かせる。
11月7日(水) 7日目 晴れ
民宿龍山荘〜22番平等寺〜23番薬王寺〜民宿あずま
歩行時間 6:40〜17:40
歩行距離 45キロ
5:45目覚ましの音を聴き、まだ眠り足りなかったが、起床。7600円(ビール大1本800円、酒1本800円込み)の支払いを済ませ、6:40出発。
昨日の朝と違い、足は軽い。足取り軽く、山の新鮮な空気を胸一杯吸いながら22番平等寺に向かう。8:20に22番に着く。
9:00に22番を出発。次の23番薬王寺までは21キロの長丁場。その上、室戸岬に通ずる国道55線の車が多い道を歩かねばならない。また、宿の主人が
「トンネルが多いので、排気ガスを吸わないようマスクが必要だ」と話していた多くのトンネルを通らねばならない。平地では今旅、最初の関門かもしれない。国道に55号線に出ると流石に幹線の国道だけあって車の量は多いが、思ったほどでもない。特にトラックが意外に少ない。「不景気のせいなのかな」と思ったが、歩いている今の私には不景気は大いに結構なことだ。お蔭で、最初のトンネルも次のトンネルも嫌な思いをしなくて通り抜けることができた。
途中、自販機のあるところでウーロン茶を買い、道路を隔てた反対側のバス停の待合所で、宿でつくってもらったおにぎりをほおばる。その際、8月頃、入れ歯が抜け、当時の勤務先近くの藤野歯科医より接着剤で接着してもらっていた歯がぐらつく。先生は旅立つ前、「旅行中、歯がもつかな?」と気になる発言があったが、不幸にも予感が当たった。携帯電話で先生に電話する。先生は
「歯医者で接着してもらうか、釣り道具などで使う接着剤がコンビニでも売っているので、応急措置としてそれでくっつけておけばいい」とアドバイスしてもらう。
14時過ぎに23番札所に到着。
23番の近くには宿が沢山あるので、今日の宿は予約していない。これから宿に入るには早過ぎて、時間が勿体無い。納経所でここから先の1番近い宿を尋ねると
「16キロ先に民宿あずまがある」と教えてもらう。時速5キロで歩いたとしても3時間強かかり、宿に入るのは18時過ぎになるが、幸いにまだ足は軽い。今旅、始めて45キロ余りを歩くことになるが、思い切ってトライすることにした。早速、民宿あずまに予約電話を入れ、14:35に23番を出発。
引き続き国道55線を歩く。15時過ぎに今日1番長い791mの日和佐トンネルに至る。専用歩道がなく、歩道は白線で仕切られた代物。車の数が少ない左側を選び、杖を車道側に突き立て、車の通過台数を数えながら急ぎ足で通る。冷や汗も混じっているのか、背中から汗が湧き出る。しかし、意外と車、特にトラック、ダンプなど大型車が少ない。「やはり昨今の不景気のせいで、消費不振、公共工事不振の影響なのだろう。しかし、歩き旅の今の私にとっては不景気大いに結構、歓迎すべきことなのだ」と思いながらトンネルを抜ける。通り抜ける間に23台の車が私の右側を轟音を発し、通過したが、ダンプが1台、トラックが1台と極めて少なかったので、恐怖心は思ったほどではなかった。「バブル時代だったらこんなことではすまなかっただろう」と思った。
国道は西に向かって延々と続き、私は西にある太陽を目指して黙々と歩く。日没までに宿に着けるか、日没を目指す太陽と競争する思いで足を早める。
「日没の 前に着きたし 秋遍路」
「西にある お日様目指し 秋遍路」
残念ながら日没後の17:40頃、55号線沿いの宿に到着。宿の女将は
「6時過ぎるかと思っていたが、早かったはね。まだ元気だし、50キロは十分歩けるんじゃない。明日は尾崎辺りまでいけるわ」と私の健脚に感心する。
宿は1階が昼は食堂、夜は飲み屋で、2階が部屋。女将は肝っ玉おかあさんタイプ。親切だし、陽気で話していて楽しい。部屋にザックを置き、直ぐ風呂に入る。今日は今旅、最高の45キロを歩き抜いたので、念入りに足をマッサージ。豆ができる気配は一向になく、自信を深める。思い切って軽登山靴にしたのが良かったのだろう。私は素足で突っ掛けを履き、ちょっと歩いただけで足の甲の皮膚が剥けるぐらい皮膚は強くないからだ。
風呂の後、直ぐに食事。料理は5品(刺身、天婦羅、ブロイラー、煮物、蟹の酢の物)と多く、ボリュームも満点の上、流石に食堂だけあって味も良い。食も酒(ビール大1本、熱燗2合)も進む。熱燗はママが「これ、いいでしょう」と言って差し出してくれた、内側の図柄がなんとも色っぽい枕絵のぐい呑み猪口で、いただく。
民宿あずまの女将さん 民宿あずまでくつろぐ私
部屋に戻り、昨夜は山中の宿のため電波が届かなかったが、今夜は携帯電話が通じるので、今日はザウルスを使い、インターネットでメール受信をする。大岸君、東君両名より斉藤君の訃報メールが届いており、びっくりする。均坊(斉藤君)とは旅立つ前の10月、上京していた時、偶然にも八重洲の地下街でバッタリ会い、喫茶店でいろいろ話してきたところだ。道中からのメールを楽しみにしているからというので、メールを送ってきたし、来年には帰朝報告ができることを楽しみにしていたのに・・・、誠に残念だ。また、今まで彼の病気平癒祈願を続けてきたのに、「私の信仰心欠如が故に私の願いは聞き届けていただけなかったか」との思いにかられ、私の不徳を詫びた。
死期が迫っていることを知りながらも、少なくとも我々の前では少しも慌てず騒がず泰然としていた彼であった。私は「彼は立派だった」と思う一方、「胸中は辛かっただろうな」と哀惜の念にかられる。次の札所以降は彼の安らかな眠りの祈願になることが悲しくなった。「彼の分も楽しく生きることが彼の供養になるのでは・・・」と思った。取り敢えず大岸君には香典手配の依頼メールを送信する。
11月1日(木)1日目
9時過ぎ自宅を出発。新幹線新大阪より岡山駅乗り換え、JR在来線徳島駅経由で高徳線板東駅に13:25に着く。
「しらなみ海道」を歩いて以来、久方振りに四国の大地に立った。
いよいよ待望の遍路の名を借りた「四国一周の歩き旅」(四国歩き遍路)の始まりだ。我が心境は正に「天気晴朗なれど浪高し」。結願までの50日弱の間、四国の大自然と人との如何なる触れ合いがあるのか・・・興味津津。胸の高まりを覚える。
空は日本晴れとはいかないが、白い雲間に青空が見え、風もなく、穏かな日和に感謝。大恩人で先達の辰野和男氏の言葉を借りると「正解、正解、大正解」。
駅前の食堂で遅い昼食(うどん)を取り、少し腹ごしらえをする。数分で1番霊山寺の山門前に到着。
来る前、インターネットで門前の店「一番街」の遍路用品が安いという情報を得ていたので、先ずその店に直行し、白衣・金剛杖・納め札・納経帳を注文。この店の中年の男性がなかなかの商売上手で、その口車にまんまと乗せられ、予定もしていなかったロウソク、線香、小物が何でも収納できる白いズタ袋を買わされる。締めて一万円弱也。
この白いズタ袋には地図、ロウソク、線香、納経帳、カメラ、メモ用紙など道中しょっちゅう取り出さねばならぬものを収納することができたので、最初の頃は重宝したが、山登り・山下りでは邪魔になり、以後は大半ザックの中の収納箱と化してしまった。金剛数珠も勧められたが、私は「信仰心はないし、仏様も形ではなく、心が大事だとおっしゃっておられるはずだ」などと屁理屈をこね、断る。
「皆さん、最初は信仰心がないなどとおっしゃられるが、巡拝しているうちに信仰心が芽生えるようですよ」と言う店の男性に、
「そうはならないと思うが、そうなったらなった時に考える。結願の際にはここへ戻ってくるから、その時に私が変わったのか、変わらなかったのか、報告しますよ」と約束する。
店の男性は「スニーカーだと道中、足に豆が出来るが、この靴なら大丈夫だ。高そうだが、どこの国の製品かな」と私の靴を値踏みし、「今夜の宿が森本旅館で、明日が坂本屋、明後日が柳水庵という計画は無理がなく、よくできているわ。それにしても柳水庵がよくとれましたな。あそこは3人しか泊めないのに・・・。元気そうだし、40日ぐらいであがってこられるかもしれんな」と言う。
9月の還暦祝いに娘夫婦・次女がプレゼントしてくれた愛用のベストを白衣に着替え、ウェストバックを白のズタ袋に替え、金剛杖を持った私は一介の旅行者からお遍路さんらしく変身し、いよいよ15時頃1番霊山寺の山門をくぐる。