笠間こぼれ話 その1 [戻る]
江戸時代、この地に忠臣蔵で有名な浅野氏の先祖が藩主として居ました。討ち入りをした赤穂浪士のなかにも笠間にゆかりのある人がいました。浅野氏が笠間から赤穂に移された理由はよくわかっていませんが、ひとつの考察があります。それを紹介します。
関連地図を示します。
左下に笠間駅があり、線路は水戸線で右へ行くと友部です。@からBの場所は次の施設の場所です。
@ 佐白山 現在は佐志能神社があるが、明治になるまでは16世紀に築城された旧笠間城があった。
A 笠間城跡 現在の地図に載っている笠間城。
B 笠間稲荷 今回の話には関係ないが有名な稲荷なので。
江戸時代になって1622年、笠間城主として浅野氏が広島からやってきた。そのときの城は@の場所。
浅野氏は関ヶ原で徳川方だった譜代大名の家系。ここに来たのは広島の領地のほかに隠居地として与えられて来たもの。
しかし浅野氏はその次の代に国替えになる。 それは1645年のこと。 国替えになって移った先は赤穂。
赤穂の浅野氏といえば、浅野内匠頭(たくみのかみ)が有名。 そう、国替えになったのは内匠頭の祖父。
有名な松の廊下での刃傷事件は国替えから56年後の1701年(元禄14年)に起きた。
ちなみに赤穂浪士の討ち入り
はその翌年、元禄15年12月14日であった(西暦1703年1月30日) 。
国替えは刃傷事件に関係は無いが、浅野氏が笠間藩主であったこと以外にも、討ち入りをした赤穂浪士のうち笠間に関わりがある人がいる。 大石内蔵助の家老屋敷跡は笠間にいまもあるし、浪士の最年長で七十代だった堀部弥兵衛は笠間出身という。
興味があるのは、そしてよくわかっていないことは、浅野氏が笠間から赤穂への国替えになった理由である。
その謎を解く手がかりと思えるものが上の地形図である。
旧笠間城@は標高180mの山上にある。 戦国時代は山城が当然で、平野を前にしてこの場所は理想的な築城場所だったといえる。
しかし江戸時代になって戦闘の必要が無くなると、行政の場所としては不便なところとなった。馬で山頂までは登れず、途中からは徒歩でということになる。 そこで藩主浅野氏は100m以上低いふもとに行政をとり行う場所をつくった。 それがいまの笠間城跡Aの場所である。
ところが、である。江戸時代の武家諸法度で勝手な築城をしてはいけない定めがある。 この点を幕府から咎められ、国替えとまでなったのではないだろうか。 ただし石高は笠間と赤穂はほぼ同じで、減俸となったわけではなかったが。
この国替えの理由は明確にどこかに書いてあるわけではなく、よくわからないとされている。上の解釈はひとつの説である。
大石邸跡は城跡Aの近くにあり、聞いた話では子孫の大石さんが笠間で教諭をしていたそうである。
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