朝 霞 大 仏 物 語

幻の朝霞大仏と大梵鐘の建立経過

2011.08.06   鈴木勝司 編







東山梨の生家は根津記念館 として公開されている。

朝霞に大伽藍、仏教学舎の建立を発起し、はじめに大梵鐘、 大仏の作製を手がけた頃の根津嘉一郎翁




はじめに

甲州出身の実業家で大正11年(旧制)武蔵高等学校を創立した初代根津嘉一郎翁(1860− 1940)は私財をもって、最晩年の昭和8年頃から埼玉県北足立郡朝霞町に地元の人達の理解と期待のもと に土地(通称朝霞遊園地又は根津遊園地(地図上)と呼ばれた)を取得し、大寺院と仏教(僧侶)学舎、自然 公園の建設を計画した。そして、この計画の手始めに京都より第一人者の鋳物師(いもじ)を朝霞に招来して 当時鳴る鐘として日本一の大梵鐘と奈良の大仏に次ぐ大仏の製作に着手した。大梵鐘は昭和10年1月20日 頃に完成し、試し撞きでは五里四方に響きわたるほどであったと当時の新聞は伝えている。昭和恐慌や日中間 の戦雲濃くなる騒然とした時代に、これら伝統的な平和のシンボルである大梵鐘や大仏の建立は地元の朝霞町 のみならず埼玉県や東京の人々に温かいぬくもりのある話題となり、この経過を伝える当時の主要新聞やこの 埼玉版の数年間を見ても判明しているだけで30件近くの記事が掲載されている。  根津翁は以前より中国から古銅を買い集めて準備し、次いで奈良の大仏に次ぐ大仏の製作にとりかかり、 昭和12年末にはほぼ実物大の原型が完成していたと思われる。しかし、7月に勃発した盧溝橋事件、次いで 第二次上海事変、さらに12月の南京事変などの日中戦争の影響で銅の使用が許可されず、其銅は日本の物を 使用するにあらず、支那より輸入したものを使用するのであるから差支えあるまいと国に交渉しますが許可さ れません。このような情況にある14年根津翁は南米へ行くことを決めた。本当は欧州へ行きたがったが世界 の情勢はそれを許さなかった。80才の高齢であり夫人や家族は心配した。出発する前に根津翁は友人の宮島 清次郎氏に自分にもしものことがあった時はたのむ、家族には宮島の指示に従うように話をしてあると後を託 して7月に出発した。アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル3カ国へ南米親善使節団の一員として訪問、特に 美術を通じた親善外交に成果をあげた。しかし帰途米国で感冒にかかり、10月帰国後も体調すぐれず恒例の 年末茶会を催したのち重症に陥り、翌15年1月4日急逝された。享年81才であった。  根津翁の遺言により、約5千万円の遺産が根津育英会(武蔵高等学校)に寄付された。しかし遺産の大部分 は根津美術館設立のためのものであり、15年12月に根津美術館が設立認可された。これとは別に根津育英 会に寄贈された数箇所の土地の中に朝霞町の大仏製作現場や大伽藍建立、自然公園建設計画の用地、すなわち 朝霞(根津)遊園地で面積は約46,000坪があった。だが、時局は戦争遂行の国策により、早急に多数の 士官を養成する必要から、東京市ヶ谷にあった陸軍予科士官学校を移転拡充するための用地として、15年8 月3日今日の埼玉県の朝霞市、和光市、新座市及び東京都練馬区にまたがる広大な土地の強制買上げ命令が出 された。この結果、根津育英会所有地となった朝霞(根津)遊園地もその陸軍予科士官学校用地の一部として、 10月に陸軍第一師団によって強制買上げされるに至った。そして16年11月に陸軍予科士官学校が東京の 市ヶ谷から移転してきて、その訓練地の一部になったのである。  発願者の根津翁の死去に加えて、国による土地の強制収用は既に原型が完成していた大仏の製作や大寺院の 建立、仏教(僧侶)学舎、自然公園の建設計画の実現を不可能なものとしたのである。大仏の製作は戦時体制 という時局により、用意してきた作鋳用の銅が使えず、昭和12年末以降はほとんど中断していたのではない かと考えらる。根津翁の友人で相談相手でもあり、当時の事情に詳しい宮島清次郎氏は「政府は銅の使用を許 さなくなり、大仏の鋳造は之を中止するの止むなきに至つた」(根津翁伝 p.324)と記している。このように 晩年の根津翁の畢生のプランは、戦時体制という時代に阻まれ、大寺院の建設に着手できず、最初の大仏建立 の段階で中断していたと思われます。もし、この大寺院の建立と仏教(僧侶)学舎そして自然公園が完成して いたら、今日、関東有数の仏教寺院のテーマパークとなり、大仏は昭和の大仏として訪れた多くの人々に安ら ぎをもたらすことができたでしょう。そして、どの宗派にも属さない、日本仏教八宗の統一を目指した仏教 (僧侶)学舎は多くの有能な僧侶を輩出し、日本の仏教界に有益な影響をもたらすことができたのではないか と想像されます。さらに時代は太平洋戦争への開戦と進み、昭和18年6月の新聞によると、中国製の青銅像 16体や塔、灯籠各一基約四千貫は海軍へ、完成していた一万二千貫の大梵鐘は陸軍へ供出献納された。戦後 は米軍基地(キャンプ・ドレーク)の一部となり、米軍撤退後は自衛隊の基地の一部になりました。 (学)根津育英会は昭和32年10月に旧地主として朝霞土地の払下げを申請することが理事会で承認され、 その後紆余曲折はありましたが、昭和39年に旧所有地の約半分にあたる2万坪余りが返還(買取)されま した。これは元の朝霞(根津)遊園地の一部を含む北側の新川越街道(254号)に接する台形状の土地で丘 や谷が有りましたので、ここを運動場として平らに整地したのが、現在の武蔵大学(昭和24年新設)の朝霞 グランド(幸町3丁目)なのです。  今日、地元の朝霞市では根津翁の計画を朝霞大仏と親しみをこめて言い伝えられていますが、いままでその 事実経過はあまり明確なものではありませんでした。そこで、大梵鐘、大仏製作にかかわる経過をできるだけ 当時の新聞、絵葉書等の写真資料、土地に関する根津育英会(武蔵学園)の記録等を参考にして時系列で検証 して概要を明らかにしたいと思います。しかしながら、昭和12年末以降の大仏製作の状況はほとんどわかっ ていません。この頃になると新聞は日中戦争の戦果と銃後の守りの軍事色一色となり、平和のシンボルの大仏 が話題に登場することはありませんでした。もし当時のことをご存知の方や関係する資料をお持ちの方は是非 ご教示をお願いする次第です。  引用した新聞や雑誌記事、図書はなるべく原文のままとし、漢字は新字体に直し、ルビは省略した。明らか に誤りと考えられる箇所は[ ]で正しく補記した。 また根津翁、宮島清次郎氏の略歴等は本稿末のHomeから メインメニューに入り別編の創立者文献目録、学園の沿革、墨跡展等を参照されたい。  本稿は平成23年6月11日に朝霞市博物館で開催された、歴史講座 朝霞人物伝 〜明治編〜 「朝霞大仏に託した思い 根津嘉一郎」で講演した一部をまとめたものです。  当日、朝霞在住の郷土史家の有永克司氏より有益な情報と一部資料の提供を受けましたので、数箇所活用さ せていただきました。厚くお礼を申し上げます。



1.大寺院、仏教(僧侶)学舎、自然公園の建設

2.大 梵 鐘 の 鋳 造

3.大 仏 の 製 作

4.朝霞(根津)遊園地とはどこか

5.朝霞大仏に託した思い




1.大寺院、仏教(僧侶)学舎、自然公園の建設


大寺院の建立と思想の善導

日本人は敬神崇仏の念に富み、儀礼を重んずる国民である。ところが近来、無神論者などと云う極端な 唯物主義者が現れて、我国の美風良俗を破壊しようとした。この険悪な風潮が此儘で放置され無神論の 現れた結果は、我国の思想を悪化し、思想界に混乱を来たした。このまま放置しては現代社会に及ぼす 影響は誠に恐ろしい。思想を善導するため、昭和十年私は埼玉県朝霞に、一大伽藍の建立に着手した。 第一に社会教化の任に当たるのは仏教の僧侶であると信じている。一般の思想を善導するには、教育家 や思想家も必要であろうが、大衆に接して、大衆を教化し善導する者は寺の僧侶が適任だから、私は まずそれには、寺の僧侶から教育する必要があると考えた。宗教学校を建てる以上は、寺院も同時に 建立するに越した事はない。僧侶と大衆との結合する機縁が多くなる。出来るだけ多くの参詣人を集めて、 その効果があがるような寺院を建立したいと期待したのである。他方では修養の道場となる寺院を望んだ わけである。東京付近で静平閑雅な土地を条件に各地を選んだ。やっとの事で、埼玉県朝霞に八万坪の 土地を得て、私の理想とする大寺院の建立に取掛かる事が出来た。朝霞の寺院には、鳴る鐘としては 日本一の大釣鐘や奈良の大仏殿以上の大きい大仏殿を拵えて名勝遊園地たらしめ、大衆が杖を引いて遊び ながらにして宗教心を起こし得るような宗教道場たらしめたいと思っている。
(根津嘉一郎著 世渡り体験談 昭和13刊)



昭和9年3月18 世に贈る 心の糧と身の慰め 百萬円を提供 根津嘉一郎氏が宗教学校と公園を建設 東京日日新聞 朝刊

財界一方の雄 −貴族院議員根津嘉一郎氏が百余万の私財を投げだし思想善導の意味で宗教学校を建てると共 に自然公園をつくって喧噪と塵埃になやむ都会人の慰安境として一般に開放するといふ、根津氏はその腹案が きまるや、 内々適当な地所を探していたが、このほど埼玉県北足立郡朝霞町の朝霞ゴルフリンクスに隣りあ った山林地七万余坪を買収することになり、去る五日正式に買ひ取った、この七万余坪のうち一万余坪を宗教 学校敷地として伽藍、五重塔、鐘楼、宗教学舎等を新築し残る六万余坪は自然美をけがさない程度で遊覧施設 をして「土」にあこがれた大東京市民のオアシスとする、整地費や宗教学校の建築費それに遊覧施設費等を加 えると百万円以上にもなる見込で、根津氏はそのプランにとりかゝっている


 堕ち行く世相に一つの支へ 根津氏計画を語る

自分は無教育者だからこのようなプランをたてゝも有識者の知識を借りねば理想的なものは出来ないしかし自 分の目的とするところはかうだ、−近ごろご承知のやうに思想が悪化し何事につけても財閥の人が槍玉にあが る、それに教育家は堕落し、宗教家は軽蔑されて国民の精神修養が出来ぬ、こんな世の中の行く末は恐ろしい、 自分一人の力ではどうにもなるまいが宗教学校を建て僧侶を養成し、それを通じて一般民衆の精神修養の目的 が幾分なりとも達し得るならば結構だ、自分は浄土宗だが宗派はどうでもいゝ、出来るなら各宗派を合はした 綜合的な宗教学校にしたい、金をいくら持っていても老い先短い自分が持っていけるわけでなし、この目的に 必要とする金なら及ばずながらいくらでもだす、先日このために京都に行き本願寺や知恩院その他の本山でい ろいろ意見を聞いてきた、自然公園は東京市民の郊外散歩の理想郷として開放せねばならぬ、その設計も外国 にある自然公園を標本として権威者に依頼するつもりだ、出来上がるのは整地から始めねばならぬのでこゝ数 年かゝるだろうが、公園の方はなるべく早くやりたい、いづれにせよ、この事業は自分の畢生の社会事業とし て後世に残しても恥かしからぬものにするつもりだ



昭和9年6月5日 朝霞遊園地準備進む 面積五万余坪  東京日日新聞 埼玉版 

かねて巷の風評として色々取沙汰されていた東上線社長根津嘉一郎氏計画の北足立郡朝霞町ゴルフ場東の遊 園地は着々設備がなりつゝあるが、総面積五万三千坪に及び根津氏畢生の事業として又東上線売込の政治的配 慮あると思惟されるもので園内には鎌倉大仏大のからかね大仏同氏の名を取る青山寺三井寺の晩鐘にもじった 釣鐘堂、洋の東西を問はず公園の粋を集めたた庭作り等に総工費実に五百万円でこれが竣工の暁には埼玉名所 の随一たるものとして東京を近くに控へているだけ期待されている



朝霞に寺を拵へる動機

記者 今日は朝霞で釣鐘の鋳造が行はれたそうですが、根津さんがあんなところへ大釣鐘を作られたのは、
      どういふ動機からですか。
根津 これはその、輓近思想の悪化ということは著しい現象で、このまゝ放つておいてはいけない、これを
      どうしても善導しなければならない、それには先ず社会教化の任に当たるべき教育者、お寺の坊さん
      からして教育してかゝる必要がある、とかう思つたからだね。
記者 へえ、すると宗教の信仰からではないんですね。
根津 私は別に信仰から来たんぢやありません。昔はお寺の坊さんはよかつた。それは寺には寺格といふ
      ものがあつて、自然に品格もあつたし、坊さんたちは皆学問があつたから大衆を導く力があつた。
      それが御一新以来寺領を没収されてしまひ、生活が苦しくなつたので坊さんはお経を読むひまに商売
      をしたり肥かつぎをしたりしなければならず、学問なんかしなくなつた。それでは人を感化する力
      なんか無くなつちまふ。そこで思想善導のためには、先づ坊さんにしつかり学問をさせ、坊さんの
      品をよくしなければならねえ。それには学校をこせえる必要があるが、どうせ学校をこせえる位なら、
      寺があつた方がよい、といつて当りまへの寺ぢや面白くない、自然に人が集まるやうに、一方では
      遊覧地にもなり、一方には修養の道場となるやうな場所でなければいけない、ところが東京の付近で
      二万坪や三万坪の土地はいくらでもあるが、五万坪、十万坪の地所といふと、なかなかないもんです
      よ、それで方々探してたんですがね、朝霞で漸く七万坪といふ土地を見つけたので、特別なものとし
      て大釣鐘と大仏を作り、一つの名勝遊覧地をこせえて、遊びながら信仰心もおこさせようといふんだ
      ね。
記者 大仏も作られるんですか。
根津 こせえやうと思つてるが、まアこの際思想悪化といふ大火事へ、たとへ一つのポンプでも水をかけよ
      うといふわけさ。それには坊さんの教育のためのお寺がよい、どうも根津が開山になつたつて呼び物
      にはならないからね。アハハ・・・。
記者 何でも日本で二番目の大釣鐘ださうですね。
根津 大きさからいへば二番目だがね、一番大きいのは天王寺の鐘だけれど、あれや下に置いてあつて鳴ら
   ないんだから、鳴るのじゃ一番さ。
記者 今日の鋳造はうまく行きましたか。
根津 高橋君(鐘を鋳るため京都から来た人)は大がいうまく行つたといつてましたがね。
   (当代財界の飛将軍 根津嘉一郎氏に物を訊く会 実業之日本 昭和10年1月1日より抜粋)


昭和8年10月21日 五萬坪の遊園地 根津氏力瘤の事業 東京日日新聞 埼玉版

既報、北足立郡朝霞町氷川神社裏手五万坪を買収し一大遊園地を実現すべく根津嘉一郎氏は飯倉吉五郎 [音五郎]氏を代理に地主と折衝中のところ一反五百円乃至六百円で大体話がまとまったので十七日正午 工博伊東忠太氏同道で実地踏査をおこなった、同氏は自己の所有する宝物蔵を設け一般の観覧に供する 計画で東上線白子笹目間に停留所を新設すでに敷地を決定した同遊園地は東京ゴルフ場に接続し付近一帯 の発展が期待されている

この新聞記事で、根津翁の計画にかける取り組みがわかる。それは伊東忠太博士(1867-1954 写真)は近代日本 が生んだ最高の建築学者、建築家、デザイナー、プランナーであり、 平安神宮(1895)、明治神宮(1920)、大倉集古館(1927)、震災記念館(1930)、湯島聖堂、築地本願寺(1934) 等の今日でも燦然と輝く建築で知られ、日本建築史の開拓者であり、建築家として初めて文化勲章を受章。 わけても寺社建築を多数てがけていた。根津翁はすべてを伊東博士にまかせようと考え共に朝霞の実地踏査 をしたと思われる。朝霞の大伽藍の総合ブランをはじめ、奈良の大仏殿よりも大きな昭和の大仏殿、五重塔 などを対象においていたのではないかと考えられる。
ちなみに、伊東博士は、大正10年に(財)根津育英会の創立メンバーに当時の我が国の代表的な教育関係者を推挙し、 自らも顧問となって武蔵高等学校の創立に尽力された平田東助伯の甥にあたり、創立時の徽章雉武高 の監修者でもあった。


根津翁と仏教界とのつながり

根津翁は仏教界の人達とかなり繋がりがある。朝霞の大寺院建立についても何人かの仏教界の有力者に相談していた。 その一人に鶴見の総持寺の貫首であった伊藤道海老師(1874-1940)がいて、大正2年に総持寺で大梵鐘を鋳造して おり、そして、この梵鐘を製作したのが高橋才治郎師であった。 伊東忠太博士もこの総持寺とは深い関係(墓所あり)にあったことなどから、朝霞の大伽藍建立プランにもつながってくる。



東京郊外に大伽藍を建設する根津嘉一郎氏 伊藤道海(鶴見 総持寺貫首)

先般来数回にわたって根津嘉一郎氏に会ったが、なるほど一代で巨万の富を作った人だけに、独特の味がある男ぢや、 拙僧にむかって「私は少し金を儲け過ぎたよ、」などいふのぢや、こんなことをあけすけなく云ふところが根津式だ、 「子孫には百万円もわけてやれば結構ぢや、」といふから、話はなかなか大きい。 ・・・ 七十八歳だといふが 、実に闘志満々驚くべき精神の持主だ、・・・ 毎朝の二時間の健康法が肉体を鍛えるばかりでなく、精神の健康法になる その間はとにかく、我をわすれ、事業をわすれ、金を離れ、所謂無我の境地にはいつているのぢや、この間の精神的休養が 、活動の場合非常な能率を発揮する。事業的な叡智も此の間に生まれてくる。・・・根津氏には恐いものがないといふ、三井三菱 その他の財閥にも何の恩顧をうけず、野武士的に大きくなつたのだからさもあろうが、毎日の行いが、その力を保持させるに非常な 役目をしていると、拙僧は思つとる。東京郊外の朝霞に東洋一の大仏像と大伽藍を建設するといふので、拙僧もその相談に預かっているが、 こんなことも根津氏でなくちややれないことだ。根津氏は禅の気脈と極致と一脈相通じたものをもっている。剛毅不屈な非常な無愛想 な反面、非常に愛嬌のある一面がある。これが根津氏の面白いところで、嫌味のないところぢや。 「財界の人物を語る」 実業之日本 昭和12.4.15


総持寺の鐘楼、梵鐘 大正2年 総高3.22m 重量19トン 作鋳:高橋才治郎、西澤吉太郎







                  朝 霞 の 大 梵 鐘 と 大 仏 製 作 の 内 容

時期 昭和8年〜
目的・規模・経緯    僧侶学校、寺院、墓園公園の建設、梵鐘、大仏の製作
 
今回の対象      大梵鐘、大仏の作製経過
発 願 者        根津嘉一郎(9年当時75才)
建 設 地        埼玉県北足立郡朝霞町蛇久保、広沢原
鋳造・作製場所     同  右

大 梵 鐘          径9尺2寸(2.8m)  高さ1丈3尺(3.9m)  
工 費         20万円
鋳物師・設計施工    高橋才治郎(9年当時70才) 京都市寺町仏光寺下ル鐘声堂主人
作製期間        昭和9年3月5日 〜 10年1月20日完成
鋳 造 日        昭和9年12月4日   完成10年1月
使用材料         銅12,000貫(45,000kg)  錫1,800貫(6,750kg) 
                    木炭3,000貫(11,250kg)  薪7,800束   コークス32トン

大 仏             仏身3丈9尺(11.82m) 蓮台9尺(2.7m) 総高4丈8尺(14.54m)
彫刻家(原型)    内藤伸氏原型製作、松田尚之氏原型製作
鋳物師        高橋才治郎、逸見梅栄氏指導 
工 費        130万円
使用材料        青銅50,000貫(187,500kg)


高橋才治郎師(鋳物師)

慶応元年5月生まれ。9才で仏具店に奉公に出され、刻苦精励して明治15年仏具商 鐘声堂を興す。銅像、梵鐘の鋳造工場を有し、その他半鐘、灯籠等社寺荘厳金物一式を扱い、全国的に知られる 仏具商となり、京都府の多額納税者にもなった。
主な作品
総持寺大梵鐘 大正2年 口径190cm 総高322cm 19トン
京都八坂神社 青銅狛犬

根津嘉一郎翁と高橋才治郎師

高橋師は苦労して商売を成功させた経歴から、根津翁とかなり似た点をもつ。年齢差も5才で、気が合い、 大梵鐘と大仏の建立プランに感動し、鋳物師の一生一代の血が燃えた。お互いに認め合い、信頼があって、 一片の契約書も交わさず、百五十万円の大仕事をまかせ、また引き受けた。

「近年根津さんから依頼を受けて作成した梵鐘と大仏は、何れも私として一生一代の大仕事で、金額からいっても 百五十万のものであるが、根津さんとは紙一枚の契約書も取交はさないで、全くの口約束から始めて居る。梵鐘は既に 一昨年完成し、目下四丈一尺の大仏さんを建築中(松田尚之氏原型、逸見梅栄氏指導)であるが、この製作苦心については 何れ又お話しする機会もあらう。兎に角、鐘作り、仏作りといふ仕事は、単に商売でやるといふだけでは出来るものではない。 精魂打ち込んで、しかも最後は絶対に神仏の加護に頼る外ない。例へば根津さんの鐘を鋳た時の話になるが、約一ヶ年を費した 準備と三万貫の地金が、僅か十八分の仕事で決着してしまふ。一旦鋳込んだ以上は、それが冷め切つて一度鳴らしてみない限りは、 果たして立派にに出来上つたかどうかは神様でなければ判らない。」(鐘を造って六十年 「苦闘の道を語る」昭和14刊より、 参考:本邦随一の鋳造家 高橋才次郎氏 「新東亜建設を誘導する人々」 日本教育資料刊行会編/刊 昭和4)




朝霞の大梵鐘、大仏建立の経過年表

昭和 8. 8. 3 根津翁朝霞土地取得(登記簿)
昭和 8.10.17 元膝折村長飯倉音五郎氏の仲介で朝霞遊園地開設の土地取得決まる。根津氏は伊東忠太博士同道で実地踏査、東上線新倉駅開設予定 、川越街道は二万円を投じて舗装工事(27)
昭和 9. 6. 1 大仏、梵鐘建設地他の地鎮祭
昭和 9.12. 4 大梵鐘鋳造式
昭和10. 1.19 大梵鐘完成、19日鐘の撞き初め、五里四方に響き渡るほど
昭和10. 7. 5 大仏原型模型完成(内藤伸氏)
昭和10. 7. 6 朝霞で大仏のアトリエ起工式
昭和11. 2.29 大仏1/4原型模型完成(松田尚之氏)
昭和11. 6.30 大仏蓮台の吹き込み着手
昭和11. 8.18 蓮弁28枚吹き込み終わる
昭和11.11.10 朝霞の根津遊園内に根津翁紀恩碑(現・根津美術館玄関先に移設)が建立され除幕式
昭和12. 2.28 大仏原寸原型なり、その後何度か手直しされる
昭和12. 3.19 大仏1/4原型鋳造模型(内藤伸氏)が出来上がるが、根津翁が納得せず作り直しとなる
昭和12.12.20 大仏原型なる(絵葉書)
昭和15. 1. 4 発願者の根津嘉一郎翁逝去(81歳)
昭和15. 3.19 根津翁遺言で朝霞遊園地は(財)根津育英会(武蔵高等学校)に寄贈される。
昭和15. 6.15 萬霊供養大石灯籠(現・多磨霊園の根津家墓所近くに設置れている)完成
昭和15. 8. 3 陸軍予科士官学校の移転用地として第一師団に買取り命令が出る
昭和15.10.26 朝霞遊園地は陸軍第一師団に買取られ登記される
昭和16.11.30 東京市ヶ谷より陸軍予科士官学校が朝霞に移転


2.大 梵 鐘 の 鋳 造




{写真は朝霞町の工事場に運ばれた大釣鐘の外枠}

昭和9年8月30日 廿万円の大釣鐘 朝霞の聖地を飾る
東京朝日新聞 朝刊

大釣鐘は一に大阪の四天王寺、二に名古屋の日暹寺だが四天王寺のは既にひゞが入って鳴らぬ日本一、そこ で今度は撞けば響く日本第二の大釣鐘が鋳造されることになった、仏教復興の声が叫ばれている時その暁鐘を 高らかに響かせるもの、費用二十万円、しかもその製作依頼者と請負者との間には一片の契約書さへ取交わさ れず、双方とも一生一代の思ひ出といふ意味で、只一言の口約束が交はされただけだといふ美はしい話さへ織 り込まれている
二十万円を投げ出して大釣鐘を造ってもらはうといふのは根津嘉一郎翁、一生を飾る事業として埼玉県北足立 郡朝霞町の朝霞ゴルフリンクス隣地十万坪の土地を買収して建設しょうといふ聖地の一部を飾るのがこの釣鐘 だが、これを契約書も交さず、やつて呉れ、やりませうで引受けたのは京都市寺町仏光寺下ル鐘声堂の主人で 本年七十歳の高橋才治郎翁だ、根津翁が今春西下して知恩院、方廣寺、東大寺、四天王寺等の釣鐘を見て歩き 高橋翁に話をもちかけた、当時根津翁は余り大きいものではなくてもといふ意向だったが、「私も七十、一代 の思い出に金はさておき、どうせ作るなら素晴らしいものをやつてみましょう」と高橋翁が男をみせ、ここに 両翁「一生一代」で共鳴し、ここに「鳴る大釣鐘」が生まれることになつたのだ、釣鐘は径九尺二寸高さ一丈 三尺、四天王寺の径一丈二尺、名古屋の日暹寺の径九尺五寸に次ぐものでこれに要する銅と錫一万三千二百貫、 二十八日午後鋳型の外枠も漸く朝霞町の工事場に運び終わり、高橋家から次男の貞三氏(三五)が夫人、子供、 五名の職人を引連れて工事場に仮住居を新築して移住九月には更に職人十五名が大挙して来ることになつて り、年内にも完成することになつている

昭和9年11月26日  降ろす大鋳型 大梵鐘の次は大佛 東京朝日新聞 朝刊

ことし七五の根津嘉一郎翁と七十の京都の鐘声堂の主人高橋才治郎翁が仏心を出し一切の契約書をぬきにし 埼玉県朝霞の聖地に作ることになつた大釣鐘鋳造のため当の高橋翁は去る七月から職人十五名と次男貞三さん (三五)と共に朝霞の工事場に籠もり毎日四十俵の木炭を使つて鋳型を造っていたが二五日ようやく鋳型も出 来上がった、いよいよ来月四日午前八時から盛大な鋳造式をあげて、銅一万二千貫、錫千八百貫を八基の溶鉱 炉で溶かして鋳上げることになつた、この銅を溶かすのに木炭千俵、コークス三二トンが使用されるという大 掛りなものだ、朝霞の二十万円の大梵鐘鋳造の工事場ではこの準備に忙殺されている、十七尺四方に二十四尺 の深さの鋳込み穴の中に径九尺二寸、高さ一丈二尺の日本で三番目の大釣鐘(第一は大阪四天王寺、第二は名 古屋日暹寺)鋳型はクレーンですっかり運び込まれた、この工事場を前にして高橋翁は四日の日は、一か八か の流し込みの時です、金の溶け工合、金の厚さ、ぴったり気が合ったときに出来るのです。四ヶ月余の苦心が 水泡に帰すか、輝かしい鐘が出来るか出来れば鐘は鳴る、三里はおろか四里も五里も鳴り渡るだろうと語るの だ、工事場の入口には「女人禁制」の制札がたっている、この大梵鐘が出来上がると、今度は大仏の鋳造に取 掛ることになっているが、この方は又一層大掛かりなもので青銅五万貫を使って百三十万円の工費だといふ



{右の方の和服の老人が高橋翁、その左が貞三君}




大梵鐘鋳型製作所ノ一部ト外形(絵葉書)



鋳込み



地銅溶解中ノ壮観(絵葉書)



鋳造準備完了



昭和9年12月5日 大釣鐘の流し込み 施主の根津氏は上機嫌で 火焔より凄い気焔
東京朝日新聞 夕刊

仏心を起こした根津嘉一郎の一世一代の仕事だといふ埼玉県朝霞の聖地建設の 大梵鐘の鋳造は四日行われた、何しろ日本で三番目の大釣鐘だといふので見物人、 見学の人出で大変なものだ、鋳込み穴の周囲には二丈もある大溶炉が八台据え付けられ、

その前の祭壇には京都からわざわざ上京して来た鋳物師の高橋才治郎翁と佐次郎、貞三、才三さんの三人の息が 衣冠束帯姿で控へ、厳かな修祓の式が執行された、十一時には炉に火が入った、 三二トンのコークスが二、三丈の高さに炎々たる焔をあげ始める、洋服姿の根津氏が駆けつけてきた「ほう〜」 とただ驚嘆、降りはじめた小雨に濡れて炉の側まで上って見て「これや熱い」と悲鳴をあげたり、大変な機嫌だ、 溶炉には八十馬力のモーターで風が絶えず送られ、一万二千貫の銅一千八百貫の錫が真赤に溶け始めドロドロに なった所で一か八かの流し込を始めた、数日後鋳型から揚げて鳴らして見る、そこで鳴れば始めて二十万円の 大梵鐘の完成となる訳で、根津氏は非常な御機嫌で語る、これは私が計画している事業の鐘だ、−事業といったって、 ・・・・・ それやかうだ、最近の社会思想を見るとこの教化の中心人物の養成が第一だと思って、ここに坊さんの 学校を創ることになったのた、仏教者は最近、時代思想を閑却しまた学問的にも全く不勉強だ、だから寺の徳と いふものがなくなった、そうした欠陥を補ふ為に新しい坊さんを養成しなければならないのだと大気焔だ、大体、 私は禅宗[浄土宗]だが、何衆にするか、いまある人と相談している、先づ六、七年の計画だ、ここには坊さん の学校と、大寺院が建設され、その周囲には俗塵を離れた遊園地も造るのだといふことだ{一か八かの流し込み を見物する根津氏(左側)}



鋳造ヲ終ヘタ刹那ノ実況(絵葉書)


梵鐘の引きあげ(絵葉書)



昭和9年12月26日


仕上ゲ作業中


完成セル大梵鐘(絵葉書)と高橋才治郎師


昭和10年1月27日 五里四方に響く大梵鐘 東京日日新聞 埼玉版

朝霞町ゴルフ場脇、根津公園に築造中の日本三位の大梵鐘は漸く仕上げを終つて立派な姿を現し作業上近くの 松の大木に三本の松丸太をしばりつけ一方に枕木を積み重ねて直径二尺の松丸太に吊してお目見得した、付近 の村民が連日押しかけて撞いては興がっているが其の音響は五里四方まで聞こえるほどの重量千八百貫[一万 二千貫]、高さ一丈三尺の巨大なものである{写真は吊りあげた大梵鐘}



{写真は大鐘を撞く人々}


昭和10年1月20日 響いたぞ! 明音 大釣鐘の撞き初め 東京朝日新聞 夕刊

根津嘉一郎氏の「仏心」の所産とか例の朝霞の釣鐘が出来上って十九日の朝つき初めをやった、径九尺二寸、 高さ一丈三尺使った銅と錫一万三千二百貫、日本で三番目の大きさだ、去年の十二月四日の「流し込み」以来、 釣鐘は池の中でのんびりと身体の熱をさましていた、土の中から出て来た釣鐘の彼方には赤松の疎林の間から 近代的直線を光らせている東洋一のゴルフ・クラブや、畑の中を真一文字走っている高圧線の鉄柱が見える、 やがてこの辺りに根津氏のいはゆる「新時代の坊さん」の学校が出来、さて山門奥深く簇々たる松籟の中から この釣鐘が幽玄な響きを漂はせる日が来よう、釣鐘はとりあへずご覧の通り太い赤松の幹にブラ下がっている、 一寸百姓一揆の分捕品といった恰好である職人が多勢撞木にとつついて、盛んにゴーン、ゴーンとやっている、 向こふの工事場から女中が「旦はんがな、そないに無闇に撞いたらあかへんいふてはりまつせ」と止めに来た、 この鐘を造った京都の高橋才治郎さんは「根津はんに聴いていたゞこ思ふとりましたのですが、けふは忙しい からいゝはりまして・・・・・・・」といふ、二十万円の鐘の音を聴きに来るべく、余りに仕事の方が忙しいと見え る



祭 文

霊鐘一度鳴ラバ海会ノ聖衆忽チ集リ二度打テバ法爾ノ説法自ラ起リ三度振ヘバ無明ノ苦悩悉ク銷ユ、サレバ晨 朝之ヲ聞イテ生死ノ迷夢ヲ驚覚シ長夜タメニ覚暁ス黄昏之ヲ聴イテ迷妄ノ束縛ヲ解脱シ煩悩タメニ菩提トナ ル、般若ノ標只鳴鐘ニアルノミコゝニ於テ根津嘉一郎氏発願出資シ朝霞ノ青山寺霊苑ニ鳴鐘ヲ設ケ四恩ニ報答 セントス、ソノ嘱望ニ従ヒ献身ノ精進ヲ累ネ名匠高橋才治郎氏、二万有五千貫高サ丈余ノ洪鐘ヲ造ラントシ今 日ソノ鋳造式ヲ挙ク、依テ仏陀諸導ノ影向ヲ仰ギソノ完成ヲ祈ル願クハコノ善行ヲ賞鑑シ根津家一門ノ繁栄ト 名工高橋氏ノ苦心ノ功トニ加庇ヲ加ヘ斯願ノ成就ヲ遂ケサセ玉ヘ併セテ願クハ生々ニ如来ノ梵音ヲ吐キ世々ニ 衆生ノ苦声ヲ脱セシメ玉へ  敬白

  昭和九年十二月四日         真義真言宗智山派朝霞町寺院代表 陶山憲宥 [東円寺住職]



梵鐘に彫られていたと思われる鐘名、武蔵高校漢文教授であった加藤虎之亮(1879-1958)教授の撰文。号は天淵。 周礼の研究家。文学博士。昭和23年東洋大学学長。また最晩年には、無窮会理事長及び研究所長を兼任した。



梵鐘や大仏製作場はオープンにされていた

根津遊園では大梵鐘、大仏製作所をオープンにして地元の人々はもとより、観光客を誘致していました。 これは事業家としての根津翁の考えで、現場の梵鐘や大仏製作をにオープンにすることで、当時の日中戦争時代に あって人々の誤解や憶測をさけること。口コミで宣伝になること。人が集まることで地元に利益がもたらされ、 また鉄道の利用者も増えること。

文学者が見た朝霞
・・・・・行った先は池袋から東上線というので朝霞。朝霞はいかにも平凡であるが武蔵野の起伏をもった地形で薯掘りです。 薯堀はおどろくなかれ、そこにある寺が世話やきなのです。バスに一区のって山門の石の標(しるし)が見えるところへ来ると、 左手の広い畑の面に一ヵ所こちゃこちゃ色とりどりの人間のかたまりがある。薯掘りなのです。山門を入ってゆくと、 ・・・、棧敷をはってフタバ幼稚園、何々小学校、特殊飲料組合とびっしり。本堂の右手に紙を下げて薯掘案内所。 一坪十六銭。うねが一本の三分の二位。・・・石段を下りて名ばかりの滝のあるところに丸髷の百姓小母さんの出している 茶屋の床几を二つくっつけてそこで休んでお握りをたべ、実に呑気(のんき)で、間抜けピクニックなところに云いがたい 味があって、神経の大保養になりました。・・・ 薯掘りにかかったが、一生懸命掘るわ掘るわ。 ・・・広い畑の眺めの上にごちゃごちゃした狭くるしい人のかたまりを見ると、いかにも東京から来て買った畑をせせくっている ようで、可笑しいが、・・・、やっぱり薯掘りは掘るべきものなりというようなところでした。・・・、庶民の秋の行楽の 一つの姿がある。・・・ かえりは薯をわけ、それぞれにかついだり背負ったりして、ブラブラ十何丁かある駅まで歩いて来た。 そしたら余り駅がひどい人なので、すこしすくのを待つ間、広告でもう一つの名所としてある日本第二の大梵鐘(だいぼんしょう) というのを見物に、自動車へ満載で行った。ところが、そこは寺でも何でもないトタン屋根の大作事場で、そ の梵鐘の発願人根津嘉一郎。大仏もこしらえかけてある。職人が働いていて、その仏師の仮住居らしい竹垣の 小家の前にはコスモスが咲いている。根津はこの梵鐘を精神凶作地の人々におくるための由。大仏もつくり、 名所にして金が落ちるようにする由。根津とこの土地とはどういう関係があるのかは不明でした。
宮本百合子「獄中への手紙」 昭和12年10月25日

スタンプの押された絵葉書

「大仏と梵鐘の図に朝霞遊覧記念 12.1.1」のスタンプが押されており、絵葉書を作製していたり、スタンプも用意してあることから、 観光客にオープンにされていたことがわかる。
ただ梵鐘や後述の大仏の絵葉書は、作業の記念撮影的な写真を用いていることから高橋才治郎師が作ったものと思われる。





アトラクション ?、 中国製の金銅据仏18体(儒教や道教)の一部(昭和10年7月)






3.大 仏 の 製 作


昭和11年6月3日 朝霞の大仏さま 蓮台吹き込みに着手 読売新聞(埼玉読売)
県南の聖地朝霞町へ、さきに根津か一郎氏の仏心を表徴する大梵鐘(一万三千貫)をその依頼によって完成し た京都の鋳師高橋才治郎翁は七十二歳の高齢なほ矍鑠として釣鐘とゝもに引受けた、これも関東一を誇る大仏 の原型(四分の一)が去る四月京都からの到着をまつて本物の鋳型作業に取掛かっていたが、二日漸く蓮台の 鋳型が完成したのでいよいよ十五日から吹き込みをはじめることになった、何しろ蓮弁大小一枚半を一日二回 づつ吹き込むのだから全部の蓮弁大廿八枚、小廿八枚計五六枚を鋳込には少なくとも一ヶ月はかゝる、大仏の 高さは蓮台とも四丈八尺、目方五万貫で鎌倉の三丈八尺より約一丈高く、奈良の五丈三尺五寸より五尺五寸低 い訳だが、それでも日本では二番目の大物である。才治郎翁の令息貞三さんの話では「百三十万円で引きうけ たのですが蓮台の方は早く出来ますが大仏様は明年か明後年にならねば出来ますまい」との事である。 {写真は蓮台整形作業}


昭和11年8月18日 四百貫の蓮弁(これが廿八枚) 読売新聞(埼玉読売)
県南の聖地北足立郡朝霞町関東一、百三十万円の大仏の蓮台は蓮弁総数廿八枚の内十七日までに十六枚の吹き 込みを終わり残る十二枚の分は来年一月までには完成の見込みだ蓮弁は一枚四百五十貫匁で高さ五尺横十一尺 といふ巨大なもの、大仏の方は同じく来年一月頃から頭部胸部手足等バラバラに分離して七十回に分けて鋳込 みを行ふ


完成した蓮台



昭和10年7月6日 日本一の美男 根津翁こんどは大仏建立 読売新聞


去る一月、二十万円の大梵鐘を埼玉県朝霞町に造った根津嘉一郎(七六)翁は、こんどは同所に百三十万円 の大仏を鋳造することになり、その製作を彫刻家内藤伸氏に委嘱、同氏は昨年七月からまづその原型の製作に とりかゝり約一年ぶりで五日完成したので根津翁や鋳物師の高橋才治郎(七一)翁を招いてみせた、新大仏は 仏身が三丈九尺、蓮台は九尺で総高四丈八尺で、奈良の大仏より五尺五寸低く、鎌倉大仏より一丈一尺高いと ふ日本で二番目の大仏だけにその容積千分の一の原型も高さが四尺八寸といふ大きさなもの、そのスタイルは 大体鎌倉の大仏に内藤氏の独創を加へたもので顔は鎌倉以上の美男でモダンボーイだ、六日午前十時半から朝 霞町でまづ実物大の原型をつくるアトリエの起工式がおこなわれる、完成は早くて三ヶ年を要するといふ


内藤伸氏と大仏の原型

昭和11年2月29日 日本一の露座の大佛 朝霞町根津公園に建立 松田氏の原型完成す 東京日日新聞 埼玉版


  {大阪発}帝展第三部無鑑査の松田尚之氏はかねて根津嘉一郎氏の委嘱により埼玉県朝霞町根津公園内に建設 さるべき露座の大仏の原型を製作中であったが漸く完成したので近く京都市寺町仏光寺下ル高橋鐘声堂の手で 鋳造にとりかかることになつた、この大仏は鋳銅の阿弥陀如来で仏身の高さ三丈九尺、蓮台の高さ九尺、合計 四十八尺原型は四分の一の粘土である。右につき松田氏は修学院のアトリエで語る、仏像の製作ははじめてな ので大学の植田先生やそのほかの方について随分研究しましたが、大抵の阿弥陀如来は片けさですが西大寺の 秘仏には両けさのものがあったので大体それを標準にすることとしました、鎌倉の大仏が三十尺ですからこれ が完成したら露座のものとしては日本一といふ訳でせう



青山根津翁紀恩碑除幕式 昭和11年11月




現在は根津美術館の入口脇にある。高さ5.45m、横幅1.82m

題字:清浦奎吾
撰文:加藤虎之亮
書:工藤壯平
日本麦酒鉱泉株式会社全員建是



根津翁は麦酒会社に東武鉄道と並ぶほど心血を注ぎ30年にわたり精魂を傾け愛着をもっていたが、長年のライバルであった大日本麦酒の馬越恭平も亡くなくなり、 昭和8年同社との合併が成ったとき、円満に経営されるように自ら役職を辞退して身を引いた。根津翁への旧社日本麦酒鉱泉会社社員による顕彰、感謝の石碑。
 

昭和11年11月10日 根津翁恩碑除幕式 東京日日新聞 埼玉版
北足立郡朝霞町の根津公園に今回根津嘉一郎翁紀恩碑が建立されたので八日午前十一時から除幕式を行った、 この根津翁も親しく出席、朝霞町民とともに余興に一日の行楽をともにした{写真は紀恩碑と余興の賑わいひ}


当時朝霞町に提出された。 碑表建設願 (朝霞市文化財課所蔵)




梵鐘に彫られていたと思われる鐘名と同じく、武蔵高校漢文教授であった加藤虎之亮教授の撰文。



昭和11年11月11日 美男におはす根津大佛 十万円の原型なる 東京日日新聞 埼玉版


東上線の一駅成揩ゥら二キロの根津公園にとてつもない大きなつり鐘が出来て土地の名物の一つになったが今 度は更に一つの名所を築こうという心意気から大仏を建立すべく工事を進め、今年の四月一日から起工原型は 十二月中に出来上がる予定で費用が十万円、実物の大仏が出来上がるのが昭和十三年中の予定で総費用は百三 十万円、大仏の身長約三丈五尺、顔だけで八尺あるといふ



工事中の顔の原型

写真は大仏の原型

昭和12年2月28日 朝霞大佛の原型成る 東京日日新聞 埼玉版

既報、朝霞公園に百三十万円の巨費を投じて建設中の大仏の原型がやつと出来上がりました、原型がやつと出 来たが竣工までにはなほ二、三年かかるとのことです。設計者の斎藤歳二郎[高橋才治郎]さんは語る「昭和 の大仏として永久にのこるものですから精神をこめてつくるつもりです、見て自然と頭も下がるような有難さ を現はすことに苦心しています」

昭和12年3月19日 読売新聞 朝刊

{話の港}れいの埼玉県朝霞町に根津嘉一郎翁が建立中の奈良に次ぐ大仏さまはこのほどやうやく原型が完 成したが、根津翁はこれを一目みて気に入らず、言下に「コイツ無器量じや、新しく作り直せイ」と鶴の一 声を下してしまつた。根津翁にいはせると、模型の時には気がつかなかつたがさて出来あがつてみると
一、下の唇が出すぎている
一、鼻の穴が下をむきすぎている
一、乳房が垂れすぎているといふのだ
  これがため原型の四分の一模型製作を依頼された内藤伸氏も来月から新しく作り直すことになつたが、一切を 請負つた京都の鋳物師高橋才治郎父子の損害は約六万円−さすが根津翁あたりのつむじはチョット曲げても大 きい


写真はその模型と作者内藤氏



昭和12年12月20日(絵葉書)




萬霊供養大石灯籠と青銅灯籠

今回の調査ではこの2灯籠が朝霞にあったという確認はできなかった。



現・多磨霊園 万霊供養大石灯籠 裏に「昭和十五年六月建之」とあり




寄進人 故根津嘉一郎 相続人 根津藤太郎


根津美術館の庭園内に東大寺金銅八角灯籠レブリカがある。

大石灯籠に刻まれている人物

*萬霊供養 増上寺徹水拝書」 法主 大島徹水
*昭和十五年六月建之
*寄進人 故根津嘉一郎 相続人 根津藤太郎(昭和15年12月に(二代)根津嘉一郎を襲名)
*根津家工事監督 松崎金太郎 (青山の造園家。山梨の実家(現・根津記念館)の庭を作る)
*石工 出口福松 香川県小豆郡豊島村工場作(石匠、山口県のザビエル記念碑の彫刻主任)

下記の新聞や朝霞市史 通史編 1989などの文献によると、根津遊園地内には灯籠が設置されていたとの記述がある。 前者は青銅灯籠で後者は大石灯籠であるが、この2つの灯籠が根津遊園地に建てられていたかどうかを調べてみたが、 根津遊園内に建てられていたか否かは確認できなかった。これらの灯籠に関してご存知の方はご教示願いたい。

1、大石灯籠は上記の記録から生前の根津翁が注文していて、それが15年6月に出来上がったと考えられます。 一方後述のように15年8月3日付けで陸軍第一師団に陸軍予科士官学校用地としての付近一帯の土地買取命令がでて、 この根津遊園部分は同年10月26日付けで買上げられ登記されています。そうすると仮に大石灯籠が6月に設置されていたとしても 4ヶ月間程ということになります。この短い間に朝霞の人達は根津遊園地内に建てられていた大石灯籠を見たのでしょうか。 あるいは建てられて、第一師団に買上げられた後もしばらくの期間そのまま残っていたのでしょうか。

2、青銅灯籠については、昭和11年8月6日 東京日日新聞 埼玉版 朝霞大仏の組立 記事中に「・・・なほ大仏さんの 前に据える青銅製の大灯籠一基はすでに出来上がったがこれは奈良大仏さんの灯籠と全く同型である。」 とある。これから朝霞に金銅八角灯籠の複製があったことがわかる。しかしこれは朝霞で製作した物(高橋師は灯籠の 作製についてはふれていない)なのか、あるいは他から手に入れたものなのか不明で、現時点で上記の根津美術館にあるものと 結論は下せない。というのは全国的に見てもこの東大寺灯籠の複製は何点も数えられていること。一方、昭和18年の新聞記事 には青銅灯籠一基を供出したとあるからである。



4.朝霞(根津)遊園地とはどこか

1)戦前の武蔵学園の記録に見る朝霞(根津)遊園地

(財)根津育英会評議員会・理事会記録                 (年報=武蔵学園史年報 号/頁)
@昭和15年3月19日 理事会決議録(年報5/p.91)   根津嘉一郎氏遺言ニヨリ嗣子藤太郎氏ヨリ本会
 [根津育英会]ニ対シ東京市及ビ付近土地並ビニ東武鉄道外有価証券ニテ五千万円(目録別紙)寄付申出
  アリ之ヲ受入ルゝ事ニ決定ス
A昭和15年  9月6日 理事会決議録(年報5/p.94)  朝霞所有地陸軍省トノ間ニ売買契約承認ノ件 承認
B昭和15年10月4日  理事会決議録(年報5/p.95)  朝霞町所有土地陸軍省ヘ売買契約ノ件 承認
C昭和16年  5月2日 昭和15年度 決算説明書 評議員会(年報13/p.47) 昭和15年1月4日創立者
 根津翁遺言ニ基ク新寄付物件所有土地 受入明細及び売却明細  埼玉県朝霞町46,348坪 総額
  208,597.50[円] 第一師団経理部

上記@の理事会記録に見られるように、根津翁の遺言により、約五千万円の資産が大正11年東京板橋区 (現・練馬区豊玉上1丁目26番1号)に自ら創立した財団法人根津育英会(武蔵高等学校)に寄贈された。 しかし遺産の大部分は右の新聞が伝えるように、根津翁が長年にわたって愛好、蒐集してきた東洋古美術コレクションをもとに 美術館を創設するためのものであり、根津育英会による美術館創設を目指していた。そして、昭和15年12月に根津美術館 が認可設立された。
一方、根津育英会に寄贈された不動産の中に朝霞町の大仏製作や大寺院建立計画の土地(根津遊園地)も含まれていて、これらの土地は 根津育英会(武蔵高等学校)の所有地となったのである。
しかしながら、この年の秋には戦争遂行の国策により東京の市ヶ谷にあつた陸軍予科士官学校を拡充するため、その移転用地として朝霞の 広大な土地が指定され、以下の陸軍省大日記に見るように昭和15年8月3日付けで買上げ命令が陸軍第一師団に出された。 根津育英会の所有地もこの陸軍予科士官学校用地の一部に含まれており、上記のA、Bの理事会記録にあるように、昭和15年9、10月の 「陸軍省へ売買契約の件」とあるように、強制買上げされ、10月26日付けで登記された。翌16年のC評議員会の決算説明書で初めて 土地面積は46,348坪で、この買上げ価格が約208,600円あまりであったがことが明らかになった。
これらの経緯から、朝霞の大寺院建立計画は実現不可能となり、完成していた大梵鐘も後に根津美術館から国に供出されるにいたった。




陸軍予科士官学校移転敷地買収の依命通牒 昭和15年8月3日

陸軍予科士官学校移転敷地買収の件

陸軍省大日記 大日記乙輯 昭和15年 「乙輯 第2類 第1冊 土地」
内容 土地 陸軍省受領貳第二四〇九號 陸軍豫科士官學校移轉敷地買収ノ件 經建甲第五七二號 陸軍副官 ヨリ留守第一師團經理部長ヘ通牒案(陸普)首題ノ件別紙ニ據リ實施スルコトニ被定タルニ付依命通牒ス(親 展扱)陸普第五三二八號 昭和十五年八月三日 別紙控ハ建築課ニ保管ス
参考:防衛研究所 レファレンスコード C01002318300
簿冊キー 陸軍省−大日記乙輯−S15−2−37


朝日新聞 昭和16年11月2日


地図で見る朝霞(根津)遊園地

*通称「朝霞又は根津遊園地」と呼ばれていた地域の正確な図面データ(面積、地図等)がない。
*各新聞記事を参照しても、土地面積が5万坪、7万坪などと記事によって異なり、また地図上の範囲  を示す図面等は載せていない。
*当時の各種地図を調査してみると、大日本帝国陸地測量部の「膝折 1万分の1 昭和12年測図」 に梵鐘、大仏製作のための作業場建物や作業にあたる人達の住居等が記録されていることが判明した。


そこで各種の地図を参照してみると、膝折 昭和12年測図 一万部の一地形図に根津遊園地(矢印の箇所)と記されている。





上図の根津遊園地部分の拡大、参道の先に作業建物群が記されている



昭和20年測図(米軍)に見る左図部分、建物群はなくなっている。



2)戦後の武蔵学園の記録に見る朝霞(根津)遊園地

D昭和32年10月1日 理事会記録(年報4/p.190)  議題 埼玉県北足立郡朝霞町大字膝折字蛇久保、広沢原
 国有地払下の件
  定刻宮島理事長議長席に着席、出席理事過半数に達しましたから理事会を開きます。
  議案に付き説明致します。
  朝霞土地は元財団法人根津育英会の所有地にして登記面坪総計46,368坪を先代根津翁が思想善導の
  為め一大構想の基に諸事着々進捗中、昭和15年9月突如軍に強制買上を受けたる土地にして終戦と同時
  に占領軍に接収せられ進駐軍用地として国有地に編入され現在に至って居りました。最近進駐軍逐次引揚
  げるに付き武蔵大学用地として大蔵省に払下を申請致したいと思います。
  出席理事至極当を得たることと全員賛成する。
  河西(豊太郎)理事発言、払下に対する対価其他一切の件は理事長一任としたいと述ぶ。是又全員賛成す。
E昭和36年10月17日  理事会決議録(年報7/p.8-10)
  朝霞国有地払下げの件    
  議長から、去る6月7日開催の大蔵省国有財産関東地方審議会に於て、当法人に対する朝霞国有地の払下
  げが承認せられたので、爾後関東財務局浦和部と払下げに関する事務的接渉に入り、既に土地の測量も終
  った(22,257坪)ので「土地最終利用計画」提出の要に迫られている旨の報告が行われた。
F昭和37年9月14日 (大蔵大臣宛 朝霞国有地払下げ申請書の提出)
  普通財産売払申請書  学校法人根津育英会 昭和37年9月  埼玉県北足立郡朝霞町(旧陸軍予科士官
  学校)土地21,620.59坪  売払価額 政府指定の通り 使用目的 武蔵大学用地として使用
G昭和39年2月28日  国有財産売買契約 土地20,389坪 売買代金116,512,400円
H昭和40年12月14日〜昭和41年1月31日  整地工事
I昭和41年8月24日  駐留米軍ならびに防衛庁共同使用施設の使用解除陳情書
J昭和43年12月9日  武蔵大学校舎敷地の用途変更申請
K昭和44年7月2日 理事会記録(年報7/p.79) 朝霞校舎敷地を運動場に用途変更するために、当初契約時
  と今回契約時との差額141,551,900[円]・・・・・
(注)朝霞土地の当初の用途による払い下げ価格は116,512,400円で、用途変更の結果として、朝霞
   の土地代は258,064,300円となった。

 解 説
Dは戦後初めて朝霞土地についての理事会記録です。これは宮島清次郎理事長の発言記録で、「先代根津
  翁が思想善導の為め一大構想の基に諸事着々進捗中、昭和15年9月突如軍に強制買上を受けたる土地
  にして・・・・」、これによって戦前の朝霞大伽藍建立計画に根津翁の身近にいてもっとも当時の事情
 に精通していた宮島清次郎理事長の気持ちがうかがえます。そして旧地主として払い下げを申請するこ
 とが承認されている。
E理事会記録では「大蔵省国有財産関東地方審議会に於て、当法人に対する朝霞国有地の払下げが承認せ
 られた」こと、測量結果は22,257坪であった。
G国有財産売買契約では新川越街道(254号線)の新設等で土地は20,389坪となったと思われる。
I駐留米軍ならびに防衛庁共同使用施設の使用解除陳情書は正田建次郎学長・校長は江古田キャンパスか
 ら朝霞へ大学、高等学校中学校の全学園移転を構想し、約2万坪の朝霞土地では狭小のため、南側に併
 せてかっての旧所有地域と同程度になる土地の払下げを申請したもの。しかしまもなく朝霞基地にホー
 クミサイルが配置されることが決まり、この学園移転構想は消えた。
K理事会記録(年報7/p.79)当初大学移転で申請したが、大学運動場に用途変更したため土地代が約二倍と
 なった。


膝折 根津遊園地部分(赤)の拡大、朝霞町蛇久保、広沢原、面積は46,368坪。 払下げの申請書に添付されていた旧所有土地略図を昭和12年図にトレーシングしたもの。

現在の状況、左図とは縮尺は異なる。254号線(新川越街道)が建設されたことにより 武蔵大学グランドは約2万坪となった。現・陸上自衛隊演習地にかっての大梵鐘、大仏製作現場の位置を書入れてみた。





武蔵大グランド 2010


5.朝霞大仏に託した思い



 根津翁は「日本人は敬神崇仏の念に富み儀礼を重んずる国民であったが、ところが近来、無神論などという
極端な唯物主義者が現れて、我が国の美風良俗を破壊しょうとした」と思想の荒廃に危惧をもち、思想善導の
目的で埼玉県北足立郡朝霞町に静平閑雅な土地を得て大伽藍の建立を計画し着手した。大衆に接して大衆を
教化し善導する者は寺の僧侶が適任である。そのため僧侶から教育する必要がある。僧侶の教育のための学校
を創るには寺院も同時に建立するにこしたことがない。僧侶と大衆との結合する機縁が多くなる。出来るだ
け多くの参詣人を集めて、その効果があがるような寺院を建立したいと期待した。自然に人が集まり、一方で
修養の道場となる。まず手始めに鳴る鐘として日本一の大釣鐘や奈良の大仏殿以上の大きい大仏殿を作り名勝
遊覧地たらしめ大衆が遊びながらにして信仰心を起こし得るような宗教道場たらしめたい。そして寺院や仏教
学舎はどの仏教宗派にも偏らない僧侶を養成するという仏教八宗の統一を目指した画期的な構想であった。
この日本仏教八宗の統一は今日においても実現されていないのである。

 根津翁の考えについて、友人であり、もっとも良き理解者であった宮島清次郎氏は「其の頃日本の思想界が
非常に混乱し来りて、こころある者をして憂慮措く態はざらしめた。君も亦其の一人で、思想善導に力を致さ
んと思ひ立ち、考えを此の方面に転ずることゝなった。君の憂へたのは極端な唯物主義の跋扈で、人々唯々
私利私欲に走り、我あるを知りて、国家あるを知らざるが如きは実に国家の大患であるとして、かゝる思想界
の混乱状態は徒に之を座視するに忍びない。・・・思想悪化の禍根は極端なる唯物主義であつて、無神論に基
づくものであるから、先ず宗教を以つて無神論を打破し、正しい思想を一般に植えつけることが必要である。
・・・・仏教がよい。仏教にしても各派小異を立て、相争ふ現状はいかぬ。先ず、仏教の統一が必要である。
故に、茲に孰れの宗派にもよらざる一大殿堂を建て、学園を造って、そこから学僧を社会に多数送り出して、
社会を教化するの任に当らしむることにしたいと決心した。」と述べている。(根津翁伝 p.320-21)
  根津翁はこの時代風潮と日本人の心の荒廃を嘆き、日本古来の仏教を通じて、日本人にとってなじみの深い
大仏や梵鐘、そして大寺院、大仏殿、五重塔、仏教(僧侶)学舎、自然公園等を建設し、名勝遊覧地として広
く開放し、より多くの人が訪れ、大衆に安心と娯楽をもたらし、そして伝統的な仏教を通じて人々に精神的な
覚醒と反省をもたらすことが出来ると考えた。

 大正時代になると大衆の余暇、娯楽のために遊園地が作られるようになった。関東では3年に平岡廣高が作
った鶴見花月園をその嚆矢とする。欧州旅行で児童遊園地を見てきて児童の体育や健康のため遊園地を開設し、
東の宝塚とも呼ばれた花月園少女歌劇は子供達の人気のまとになり、子供の遊具や設備だけでなくグランドや
テニスコート、茶店や五重塔やホテル、日本最初のダンスホールもあって、著名な多くの文学者、演劇、美術
家達が多く集った。しかし遊園地は常に新しい遊具設備を導入しないと大衆に飽きられてしまい集客率が落ち
てしまうという常に投資が欠かせず経営の負担も大きいものであった。この後、電鉄各社が集客のため沿線各
地に遊園地をつくるようになった。

 根津翁は今日的に云えば、朝霞の大伽藍をテーマパークにしょうと考えた。仏教の大仏や大梵鐘、大伽藍は
日本の歴史的、伝統的な宗教、信仰に基づくもので大衆が何度参詣しても飽きられるものではない。より多く
の参詣者を集め仏教や僧侶との機縁を深めることができ、ひいては思想の善導につながるものとなる。一方で
より多くの参詣人を集めることは寺院や仏教(僧侶)学校の経営や運営を保証するものとなる。このように
将来の寺院や学舎の経営を考えていたのである。昭和の大梵鐘や大仏作製は大伽藍建立の呼び物であって、
この製作段階の現場から観光客にオープンにすることは世間の誤解を避けるとともに口コミによる宣伝効果を
狙ったものであり、また地元の朝霞の人達にとっては将来の門前町としての発展につながるものであった。
 
 根津翁は鉄道事業家であり、かって請われて疲弊していた東武沿線の大寺院を再興させ、繁盛させてきた
経験を述べている。それは群馬県太田市の呑龍さまや西新井大師であった。東武鉄道は大正9年から業務の
運用一本化などの経営合理化のため伊勢崎線の西新井駅から東上線の上板橋駅に至る11.6kmの西板線を
計画した。しかし12年9月1日関東大震災にみまわれ、さらにこの路線は大きな課題があり、それは荒川放
水路、隅田川、東北本線、赤羽線等を越える橋梁等の難問が控えており、その後敷設予定地の市街化、人口の
増加等により、昭和5年に敷設は不可能となった。しかし昭和恐慌の最中の鉄道経営の難しい時期の昭和6年
に西新井駅〜大師前駅のわずか1.1kmの鉄道を先行敷設し12月に営業を開始した。西新井大師の縁日に
は数万人にのぼる参詣者の便を図ったのである。戦後は環状七号線との交差箇所が問題となり、一時は廃線を
考えたが、参詣人の利便や門前商店街、沿線住民の希望を容れ、この一駅間だけの路線を残した(東武鉄道 
百年史 p.315-319)。今日では無人改札の高架線となっている。これらの例を見るまでもなく根津翁は朝霞
の大伽藍の完成時には東上線の路線を引き込むことも計画していたのである。

 昭和の初期の時代背景を見てみると、日本経済は慢性的な不況が続き、昭和5年に金解禁を行ったが、前年
のアメリカのニューヨークウォール街で発生した株価大暴落は世界中に波及し、日本の昭和恐慌に追い打ちを
かけ、多数の中小企業は倒産し、都市には失業者が溢れ、農民の生活は困窮した。昭和6年には軍が暴走して
満州事変が勃発し、7年2月には金解禁を実行した大蔵大臣井上準之助が暗殺され、3月にはドル買いによっ
て巨額の利益をあげた三井財閥の総帥団琢磨が暗殺される血盟団事件が続いた。次いで軍の青年将校達による
五・一五事件がおこり犬養毅が凶弾に倒れた。11年には軍の青年将校による反乱二・二六事件が勃発した。
中国では12年8月には第二次上海事変が、朝霞の大仏の原型がほぼ完成したと考えられる、12月には南京
事変が起きている。これらを契機にして軍人がしだいに国政を支配する騒然とした時代であった。

 根津翁の国家観は思想的には伝統的、保守的な立場であり、産業報国を念頭に実業活動を行ってきたことか
ら、国政や国策そして日中戦争などの時局に対する自らの思想を明確にすることはなかった。根津翁の思想を
解明することは今後の研究の課題である。だが戦争に対して歴史的に見て平和の象徴である大仏の建立や寺院、
僧侶学舎の建設という対局からおのずと明かになるように、晩年の根津翁があえて自らの資産と身を削って、
これらの計画に着手したことは、その根底に愛国心と日本国民の生活の安寧を強く希求し、このために全力を
注いでいたと見ることが出来るのである。朝霞の大仏、大寺院、自然公園の建立は根津翁によってのみ実現可
能な壮大なプランであった。宗教家でもない一個人が独力で奈良の大仏に匹敵する大仏を建立し、大仏殿や大
伽藍そして僧侶学舎や自然公園を建設するという、かって我が国の歴史上このような人物は存在しただろうか、
もし戦争に阻まれることなく、実現していたら、朝霞大仏や大寺院は名実ともに昭和の大伽藍として多くの
人々が訪れる名所となり、根津翁が考えたように大きな役割を果たし得たと考えられる。残念ながら戦争につ
き進む時代の趨勢はこの実現を不可能にしてしまったのである。
  その意味で、昭和の日中戦争からやがて太平洋戦争の開戦に至る軍国主義の時代に、晩年の根津翁が独力で
朝霞に建立しようとした昭和の大仏に託した思いを研究することは意義深いことで、いままでの根津像を改定
することにつながり、根津翁の計画を理解し、期待を持って温かく受け入れた朝霞の人々ともども再評価され
ることと思われる。



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