朝 霞 大 仏 物 語幻の朝霞大仏と大梵鐘の建立経過2011.08.06 鈴木勝司 編 |
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甲州出身の実業家で大正11年(旧制)武蔵高等学校を創立した初代根津嘉一郎翁(1860− 1940)は私財をもって、最晩年の昭和8年頃から埼玉県北足立郡朝霞町に地元の人達の理解と期待のもと に土地(通称朝霞遊園地又は根津遊園地(地図上)と呼ばれた)を取得し、大寺院と仏教(僧侶)学舎、自然 公園の建設を計画した。そして、この計画の手始めに京都より第一人者の鋳物師(いもじ)を朝霞に招来して 当時鳴る鐘として日本一の大梵鐘と奈良の大仏に次ぐ大仏の製作に着手した。大梵鐘は昭和10年1月20日 頃に完成し、試し撞きでは五里四方に響きわたるほどであったと当時の新聞は伝えている。昭和恐慌や日中間 の戦雲濃くなる騒然とした時代に、これら伝統的な平和のシンボルである大梵鐘や大仏の建立は地元の朝霞町 のみならず埼玉県や東京の人々に温かいぬくもりのある話題となり、この経過を伝える当時の主要新聞やこの 埼玉版の数年間を見ても判明しているだけで30件近くの記事が掲載されている。 根津翁は以前より中国から古銅を買い集めて準備し、次いで奈良の大仏に次ぐ大仏の製作にとりかかり、 昭和12年末にはほぼ実物大の原型が完成していたと思われる。しかし、7月に勃発した盧溝橋事件、次いで 第二次上海事変、さらに12月の南京事変などの日中戦争の影響で銅の使用が許可されず、其銅は日本の物を 使用するにあらず、支那より輸入したものを使用するのであるから差支えあるまいと国に交渉しますが許可さ れません。このような情況にある14年根津翁は南米へ行くことを決めた。本当は欧州へ行きたがったが世界 の情勢はそれを許さなかった。80才の高齢であり夫人や家族は心配した。出発する前に根津翁は友人の宮島 清次郎氏に自分にもしものことがあった時はたのむ、家族には宮島の指示に従うように話をしてあると後を託 して7月に出発した。アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル3カ国へ南米親善使節団の一員として訪問、特に 美術を通じた親善外交に成果をあげた。しかし帰途米国で感冒にかかり、10月帰国後も体調すぐれず恒例の 年末茶会を催したのち重症に陥り、翌15年1月4日急逝された。享年81才であった。 根津翁の遺言により、約5千万円の遺産が根津育英会(武蔵高等学校)に寄付された。しかし遺産の大部分 は根津美術館設立のためのものであり、15年12月に根津美術館が設立認可された。これとは別に根津育英 会に寄贈された数箇所の土地の中に朝霞町の大仏製作現場や大伽藍建立、自然公園建設計画の用地、すなわち 朝霞(根津)遊園地で面積は約46,000坪があった。だが、時局は戦争遂行の国策により、早急に多数の 士官を養成する必要から、東京市ヶ谷にあった陸軍予科士官学校を移転拡充するための用地として、15年8 月3日今日の埼玉県の朝霞市、和光市、新座市及び東京都練馬区にまたがる広大な土地の強制買上げ命令が出 された。この結果、根津育英会所有地となった朝霞(根津)遊園地もその陸軍予科士官学校用地の一部として、 10月に陸軍第一師団によって強制買上げされるに至った。そして16年11月に陸軍予科士官学校が東京の 市ヶ谷から移転してきて、その訓練地の一部になったのである。 発願者の根津翁の死去に加えて、国による土地の強制収用は既に原型が完成していた大仏の製作や大寺院の 建立、仏教(僧侶)学舎、自然公園の建設計画の実現を不可能なものとしたのである。大仏の製作は戦時体制 という時局により、用意してきた作鋳用の銅が使えず、昭和12年末以降はほとんど中断していたのではない かと考えらる。根津翁の友人で相談相手でもあり、当時の事情に詳しい宮島清次郎氏は「政府は銅の使用を許 さなくなり、大仏の鋳造は之を中止するの止むなきに至つた」(根津翁伝 p.324)と記している。このように 晩年の根津翁の畢生のプランは、戦時体制という時代に阻まれ、大寺院の建設に着手できず、最初の大仏建立 の段階で中断していたと思われます。もし、この大寺院の建立と仏教(僧侶)学舎そして自然公園が完成して いたら、今日、関東有数の仏教寺院のテーマパークとなり、大仏は昭和の大仏として訪れた多くの人々に安ら ぎをもたらすことができたでしょう。そして、どの宗派にも属さない、日本仏教八宗の統一を目指した仏教 (僧侶)学舎は多くの有能な僧侶を輩出し、日本の仏教界に有益な影響をもたらすことができたのではないか と想像されます。さらに時代は太平洋戦争への開戦と進み、昭和18年6月の新聞によると、中国製の青銅像 16体や塔、灯籠各一基約四千貫は海軍へ、完成していた一万二千貫の大梵鐘は陸軍へ供出献納された。戦後 は米軍基地(キャンプ・ドレーク)の一部となり、米軍撤退後は自衛隊の基地の一部になりました。 (学)根津育英会は昭和32年10月に旧地主として朝霞土地の払下げを申請することが理事会で承認され、 その後紆余曲折はありましたが、昭和39年に旧所有地の約半分にあたる2万坪余りが返還(買取)されま した。これは元の朝霞(根津)遊園地の一部を含む北側の新川越街道(254号)に接する台形状の土地で丘 や谷が有りましたので、ここを運動場として平らに整地したのが、現在の武蔵大学(昭和24年新設)の朝霞 グランド(幸町3丁目)なのです。 今日、地元の朝霞市では根津翁の計画を朝霞大仏と親しみをこめて言い伝えられていますが、いままでその 事実経過はあまり明確なものではありませんでした。そこで、大梵鐘、大仏製作にかかわる経過をできるだけ 当時の新聞、絵葉書等の写真資料、土地に関する根津育英会(武蔵学園)の記録等を参考にして時系列で検証 して概要を明らかにしたいと思います。しかしながら、昭和12年末以降の大仏製作の状況はほとんどわかっ ていません。この頃になると新聞は日中戦争の戦果と銃後の守りの軍事色一色となり、平和のシンボルの大仏 が話題に登場することはありませんでした。もし当時のことをご存知の方や関係する資料をお持ちの方は是非 ご教示をお願いする次第です。 引用した新聞や雑誌記事、図書はなるべく原文のままとし、漢字は新字体に直し、ルビは省略した。明らか に誤りと考えられる箇所は[ ]で正しく補記した。 また根津翁、宮島清次郎氏の略歴等は本稿末のHomeから メインメニューに入り別編の創立者文献目録、学園の沿革、墨跡展等を参照されたい。 本稿は平成23年6月11日に朝霞市博物館で開催された、歴史講座 朝霞人物伝 〜明治編〜 「朝霞大仏に託した思い 根津嘉一郎」で講演した一部をまとめたものです。 当日、朝霞在住の郷土史家の有永克司氏より有益な情報と一部資料の提供を受けましたので、数箇所活用さ せていただきました。厚くお礼を申し上げます。 |
1.大寺院、仏教(僧侶)学舎、自然公園の建設2.大 梵 鐘 の 鋳 造3.大 仏 の 製 作4.朝霞(根津)遊園地とはどこか3h>
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総持寺の鐘楼、梵鐘 大正2年 総高3.22m 重量19トン 作鋳:高橋才治郎、西澤吉太郎
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昭和 8. 8. 3 | 根津翁朝霞土地取得(登記簿) |
昭和 8.10.17 | 元膝折村長飯倉音五郎氏の仲介で朝霞遊園地開設の土地取得決まる。根津氏は伊東忠太博士同道で実地踏査、東上線新倉駅開設予定 、川越街道は二万円を投じて舗装工事(27) |
昭和 9. 6. 1 | 大仏、梵鐘建設地他の地鎮祭 |
昭和 9.12. 4 | 大梵鐘鋳造式 |
昭和10. 1.19 | 大梵鐘完成、19日鐘の撞き初め、五里四方に響き渡るほど |
昭和10. 7. 5 | 大仏原型模型完成(内藤伸氏) |
昭和10. 7. 6 | 朝霞で大仏のアトリエ起工式 |
昭和11. 2.29 | 大仏1/4原型模型完成(松田尚之氏) |
昭和11. 6.30 | 大仏蓮台の吹き込み着手 |
昭和11. 8.18 | 蓮弁28枚吹き込み終わる |
昭和11.11.10 | 朝霞の根津遊園内に根津翁紀恩碑(現・根津美術館玄関先に移設)が建立され除幕式 |
昭和12. 2.28 | 大仏原寸原型なり、その後何度か手直しされる |
昭和12. 3.19 | 大仏1/4原型鋳造模型(内藤伸氏)が出来上がるが、根津翁が納得せず作り直しとなる |
昭和12.12.20 | 大仏原型なる(絵葉書) |
昭和15. 1. 4 | 発願者の根津嘉一郎翁逝去(81歳) |
昭和15. 3.19 | 根津翁遺言で朝霞遊園地は(財)根津育英会(武蔵高等学校)に寄贈される。 |
昭和15. 6.15 | 萬霊供養大石灯籠(現・多磨霊園の根津家墓所近くに設置れている)完成 |
昭和15. 8. 3 | 陸軍予科士官学校の移転用地として第一師団に買取り命令が出る |
昭和15.10.26 | 朝霞遊園地は陸軍第一師団に買取られ登記される |
昭和16.11.30 | 東京市ヶ谷より陸軍予科士官学校が朝霞に移転 |
{写真は朝霞町の工事場に運ばれた大釣鐘の外枠} |
昭和9年8月30日 廿万円の大釣鐘 朝霞の聖地を飾る
大釣鐘は一に大阪の四天王寺、二に名古屋の日暹寺だが四天王寺のは既にひゞが入って鳴らぬ日本一、そこ
で今度は撞けば響く日本第二の大釣鐘が鋳造されることになった、仏教復興の声が叫ばれている時その暁鐘を
高らかに響かせるもの、費用二十万円、しかもその製作依頼者と請負者との間には一片の契約書さへ取交わさ
れず、双方とも一生一代の思ひ出といふ意味で、只一言の口約束が交はされただけだといふ美はしい話さへ織
り込まれている |
昭和9年11月26日 降ろす大鋳型 大梵鐘の次は大佛 東京朝日新聞 朝刊
ことし七五の根津嘉一郎翁と七十の京都の鐘声堂の主人高橋才治郎翁が仏心を出し一切の契約書をぬきにし 埼玉県朝霞の聖地に作ることになつた大釣鐘鋳造のため当の高橋翁は去る七月から職人十五名と次男貞三さん (三五)と共に朝霞の工事場に籠もり毎日四十俵の木炭を使つて鋳型を造っていたが二五日ようやく鋳型も出 来上がった、いよいよ来月四日午前八時から盛大な鋳造式をあげて、銅一万二千貫、錫千八百貫を八基の溶鉱 炉で溶かして鋳上げることになつた、この銅を溶かすのに木炭千俵、コークス三二トンが使用されるという大 掛りなものだ、朝霞の二十万円の大梵鐘鋳造の工事場ではこの準備に忙殺されている、十七尺四方に二十四尺 の深さの鋳込み穴の中に径九尺二寸、高さ一丈二尺の日本で三番目の大釣鐘(第一は大阪四天王寺、第二は名 古屋日暹寺)鋳型はクレーンですっかり運び込まれた、この工事場を前にして高橋翁は四日の日は、一か八か の流し込みの時です、金の溶け工合、金の厚さ、ぴったり気が合ったときに出来るのです。四ヶ月余の苦心が 水泡に帰すか、輝かしい鐘が出来るか出来れば鐘は鳴る、三里はおろか四里も五里も鳴り渡るだろうと語るの だ、工事場の入口には「女人禁制」の制札がたっている、この大梵鐘が出来上がると、今度は大仏の鋳造に取 掛ることになっているが、この方は又一層大掛かりなもので青銅五万貫を使って百三十万円の工費だといふ |
{右の方の和服の老人が高橋翁、その左が貞三君} |
大梵鐘鋳型製作所ノ一部ト外形(絵葉書) |
鋳込み |
地銅溶解中ノ壮観(絵葉書) |
鋳造準備完了 |
昭和9年12月5日 大釣鐘の流し込み 施主の根津氏は上機嫌で
火焔より凄い気焔 仏心を起こした根津嘉一郎の一世一代の仕事だといふ埼玉県朝霞の聖地建設の 大梵鐘の鋳造は四日行われた、何しろ日本で三番目の大釣鐘だといふので見物人、 見学の人出で大変なものだ、鋳込み穴の周囲には二丈もある大溶炉が八台据え付けられ、 |
その前の祭壇には京都からわざわざ上京して来た鋳物師の高橋才治郎翁と佐次郎、貞三、才三さんの三人の息が 衣冠束帯姿で控へ、厳かな修祓の式が執行された、十一時には炉に火が入った、 三二トンのコークスが二、三丈の高さに炎々たる焔をあげ始める、洋服姿の根津氏が駆けつけてきた「ほう〜」 とただ驚嘆、降りはじめた小雨に濡れて炉の側まで上って見て「これや熱い」と悲鳴をあげたり、大変な機嫌だ、 溶炉には八十馬力のモーターで風が絶えず送られ、一万二千貫の銅一千八百貫の錫が真赤に溶け始めドロドロに なった所で一か八かの流し込を始めた、数日後鋳型から揚げて鳴らして見る、そこで鳴れば始めて二十万円の 大梵鐘の完成となる訳で、根津氏は非常な御機嫌で語る、これは私が計画している事業の鐘だ、−事業といったって、 ・・・・・ それやかうだ、最近の社会思想を見るとこの教化の中心人物の養成が第一だと思って、ここに坊さんの 学校を創ることになったのた、仏教者は最近、時代思想を閑却しまた学問的にも全く不勉強だ、だから寺の徳と いふものがなくなった、そうした欠陥を補ふ為に新しい坊さんを養成しなければならないのだと大気焔だ、大体、 私は禅宗[浄土宗]だが、何衆にするか、いまある人と相談している、先づ六、七年の計画だ、ここには坊さん の学校と、大寺院が建設され、その周囲には俗塵を離れた遊園地も造るのだといふことだ{一か八かの流し込み を見物する根津氏(左側)} |
鋳造ヲ終ヘタ刹那ノ実況(絵葉書) |
梵鐘の引きあげ(絵葉書) |
昭和9年12月26日 |
仕上ゲ作業中 |
完成セル大梵鐘(絵葉書)と高橋才治郎師 |
昭和10年1月27日 五里四方に響く大梵鐘 東京日日新聞 埼玉版 朝霞町ゴルフ場脇、根津公園に築造中の日本三位の大梵鐘は漸く仕上げを終つて立派な姿を現し作業上近くの 松の大木に三本の松丸太をしばりつけ一方に枕木を積み重ねて直径二尺の松丸太に吊してお目見得した、付近 の村民が連日押しかけて撞いては興がっているが其の音響は五里四方まで聞こえるほどの重量千八百貫[一万 二千貫]、高さ一丈三尺の巨大なものである{写真は吊りあげた大梵鐘} |
{写真は大鐘を撞く人々} |
昭和10年1月20日 響いたぞ! 明音 大釣鐘の撞き初め 東京朝日新聞 夕刊 根津嘉一郎氏の「仏心」の所産とか例の朝霞の釣鐘が出来上って十九日の朝つき初めをやった、径九尺二寸、 高さ一丈三尺使った銅と錫一万三千二百貫、日本で三番目の大きさだ、去年の十二月四日の「流し込み」以来、 釣鐘は池の中でのんびりと身体の熱をさましていた、土の中から出て来た釣鐘の彼方には赤松の疎林の間から 近代的直線を光らせている東洋一のゴルフ・クラブや、畑の中を真一文字走っている高圧線の鉄柱が見える、 やがてこの辺りに根津氏のいはゆる「新時代の坊さん」の学校が出来、さて山門奥深く簇々たる松籟の中から この釣鐘が幽玄な響きを漂はせる日が来よう、釣鐘はとりあへずご覧の通り太い赤松の幹にブラ下がっている、 一寸百姓一揆の分捕品といった恰好である職人が多勢撞木にとつついて、盛んにゴーン、ゴーンとやっている、 向こふの工事場から女中が「旦はんがな、そないに無闇に撞いたらあかへんいふてはりまつせ」と止めに来た、 この鐘を造った京都の高橋才治郎さんは「根津はんに聴いていたゞこ思ふとりましたのですが、けふは忙しい からいゝはりまして・・・・・・・」といふ、二十万円の鐘の音を聴きに来るべく、余りに仕事の方が忙しいと見え る |
祭 文 霊鐘一度鳴ラバ海会ノ聖衆忽チ集リ二度打テバ法爾ノ説法自ラ起リ三度振ヘバ無明ノ苦悩悉ク銷ユ、サレバ晨 朝之ヲ聞イテ生死ノ迷夢ヲ驚覚シ長夜タメニ覚暁ス黄昏之ヲ聴イテ迷妄ノ束縛ヲ解脱シ煩悩タメニ菩提トナ ル、般若ノ標只鳴鐘ニアルノミコゝニ於テ根津嘉一郎氏発願出資シ朝霞ノ青山寺霊苑ニ鳴鐘ヲ設ケ四恩ニ報答 セントス、ソノ嘱望ニ従ヒ献身ノ精進ヲ累ネ名匠高橋才治郎氏、二万有五千貫高サ丈余ノ洪鐘ヲ造ラントシ今 日ソノ鋳造式ヲ挙ク、依テ仏陀諸導ノ影向ヲ仰ギソノ完成ヲ祈ル願クハコノ善行ヲ賞鑑シ根津家一門ノ繁栄ト 名工高橋氏ノ苦心ノ功トニ加庇ヲ加ヘ斯願ノ成就ヲ遂ケサセ玉ヘ併セテ願クハ生々ニ如来ノ梵音ヲ吐キ世々ニ 衆生ノ苦声ヲ脱セシメ玉へ 敬白 昭和九年十二月四日 真義真言宗智山派朝霞町寺院代表 陶山憲宥 [東円寺住職] |
梵鐘に彫られていたと思われる鐘名、武蔵高校漢文教授であった加藤虎之亮(1879-1958)教授の撰文。号は天淵。 周礼の研究家。文学博士。昭和23年東洋大学学長。また最晩年には、無窮会理事長及び研究所長を兼任した。 |
梵鐘や大仏製作場はオープンにされていた
根津遊園では大梵鐘、大仏製作所をオープンにして地元の人々はもとより、観光客を誘致していました。 これは事業家としての根津翁の考えで、現場の梵鐘や大仏製作をにオープンにすることで、当時の日中戦争時代に あって人々の誤解や憶測をさけること。口コミで宣伝になること。人が集まることで地元に利益がもたらされ、 また鉄道の利用者も増えること。 文学者が見た朝霞 |
スタンプの押された絵葉書 「大仏と梵鐘の図に朝霞遊覧記念 12.1.1」のスタンプが押されており、絵葉書を作製していたり、スタンプも用意してあることから、
観光客にオープンにされていたことがわかる。 |
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昭和11年6月3日 朝霞の大仏さま 蓮台吹き込みに着手 読売新聞(埼玉読売) |
昭和11年8月18日 四百貫の蓮弁(これが廿八枚) 読売新聞(埼玉読売) |
完成した蓮台 |
昭和10年7月6日 日本一の美男 根津翁こんどは大仏建立 読売新聞 去る一月、二十万円の大梵鐘を埼玉県朝霞町に造った根津嘉一郎(七六)翁は、こんどは同所に百三十万円 の大仏を鋳造することになり、その製作を彫刻家内藤伸氏に委嘱、同氏は昨年七月からまづその原型の製作に とりかゝり約一年ぶりで五日完成したので根津翁や鋳物師の高橋才治郎(七一)翁を招いてみせた、新大仏は 仏身が三丈九尺、蓮台は九尺で総高四丈八尺で、奈良の大仏より五尺五寸低く、鎌倉大仏より一丈一尺高いと ふ日本で二番目の大仏だけにその容積千分の一の原型も高さが四尺八寸といふ大きさなもの、そのスタイルは 大体鎌倉の大仏に内藤氏の独創を加へたもので顔は鎌倉以上の美男でモダンボーイだ、六日午前十時半から朝 霞町でまづ実物大の原型をつくるアトリエの起工式がおこなわれる、完成は早くて三ヶ年を要するといふ |
内藤伸氏と大仏の原型 |
| 昭和11年2月29日 日本一の露座の大佛 朝霞町根津公園に建立 松田氏の原型完成す 東京日日新聞 埼玉版 {大阪発}帝展第三部無鑑査の松田尚之氏はかねて根津嘉一郎氏の委嘱により埼玉県朝霞町根津公園内に建設 さるべき露座の大仏の原型を製作中であったが漸く完成したので近く京都市寺町仏光寺下ル高橋鐘声堂の手で 鋳造にとりかかることになつた、この大仏は鋳銅の阿弥陀如来で仏身の高さ三丈九尺、蓮台の高さ九尺、合計 四十八尺原型は四分の一の粘土である。右につき松田氏は修学院のアトリエで語る、仏像の製作ははじめてな ので大学の植田先生やそのほかの方について随分研究しましたが、大抵の阿弥陀如来は片けさですが西大寺の 秘仏には両けさのものがあったので大体それを標準にすることとしました、鎌倉の大仏が三十尺ですからこれ が完成したら露座のものとしては日本一といふ訳でせう |
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現在は根津美術館の入口脇にある。高さ5.45m、横幅1.82m |
根津翁は麦酒会社に東武鉄道と並ぶほど心血を注ぎ30年にわたり精魂を傾け愛着をもっていたが、長年のライバルであった大日本麦酒の馬越恭平も亡くなくなり、 昭和8年同社との合併が成ったとき、円満に経営されるように自ら役職を辞退して身を引いた。根津翁への旧社日本麦酒鉱泉会社社員による顕彰、感謝の石碑。 |
昭和11年11月10日 根津翁恩碑除幕式 東京日日新聞 埼玉版 |
当時朝霞町に提出された。 碑表建設願 (朝霞市文化財課所蔵) |
梵鐘に彫られていたと思われる鐘名と同じく、武蔵高校漢文教授であった加藤虎之亮教授の撰文。 |
昭和11年11月11日 美男におはす根津大佛 十万円の原型なる 東京日日新聞 埼玉版 東上線の一駅成揩ゥら二キロの根津公園にとてつもない大きなつり鐘が出来て土地の名物の一つになったが今 度は更に一つの名所を築こうという心意気から大仏を建立すべく工事を進め、今年の四月一日から起工原型は 十二月中に出来上がる予定で費用が十万円、実物の大仏が出来上がるのが昭和十三年中の予定で総費用は百三 十万円、大仏の身長約三丈五尺、顔だけで八尺あるといふ |
工事中の顔の原型 |
写真は大仏の原型 |
昭和12年2月28日 朝霞大佛の原型成る 東京日日新聞 埼玉版 既報、朝霞公園に百三十万円の巨費を投じて建設中の大仏の原型がやつと出来上がりました、原型がやつと出 来たが竣工までにはなほ二、三年かかるとのことです。設計者の斎藤歳二郎[高橋才治郎]さんは語る「昭和 の大仏として永久にのこるものですから精神をこめてつくるつもりです、見て自然と頭も下がるような有難さ を現はすことに苦心しています」 |
昭和12年3月19日 読売新聞 朝刊 {話の港}れいの埼玉県朝霞町に根津嘉一郎翁が建立中の奈良に次ぐ大仏さまはこのほどやうやく原型が完
成したが、根津翁はこれを一目みて気に入らず、言下に「コイツ無器量じや、新しく作り直せイ」と鶴の一
声を下してしまつた。根津翁にいはせると、模型の時には気がつかなかつたがさて出来あがつてみると |
写真はその模型と作者内藤氏 |
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昭和12年12月20日(絵葉書) |
萬霊供養大石灯籠と青銅灯籠今回の調査ではこの2灯籠が朝霞にあったという確認はできなかった。
大石灯籠に刻まれている人物
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(財)根津育英会評議員会・理事会記録 (年報=武蔵学園史年報 号/頁) @昭和15年3月19日 理事会決議録(年報5/p.91) 根津嘉一郎氏遺言ニヨリ嗣子藤太郎氏ヨリ本会 [根津育英会]ニ対シ東京市及ビ付近土地並ビニ東武鉄道外有価証券ニテ五千万円(目録別紙)寄付申出 アリ之ヲ受入ルゝ事ニ決定ス A昭和15年 9月6日 理事会決議録(年報5/p.94) 朝霞所有地陸軍省トノ間ニ売買契約承認ノ件 承認 B昭和15年10月4日 理事会決議録(年報5/p.95) 朝霞町所有土地陸軍省ヘ売買契約ノ件 承認 C昭和16年 5月2日 昭和15年度 決算説明書 評議員会(年報13/p.47) 昭和15年1月4日創立者 根津翁遺言ニ基ク新寄付物件所有土地 受入明細及び売却明細 埼玉県朝霞町46,348坪 総額 208,597.50[円] 第一師団経理部 |
上記@の理事会記録に見られるように、根津翁の遺言により、約五千万円の資産が大正11年東京板橋区
(現・練馬区豊玉上1丁目26番1号)に自ら創立した財団法人根津育英会(武蔵高等学校)に寄贈された。
しかし遺産の大部分は右の新聞が伝えるように、根津翁が長年にわたって愛好、蒐集してきた東洋古美術コレクションをもとに
美術館を創設するためのものであり、根津育英会による美術館創設を目指していた。そして、昭和15年12月に根津美術館
が認可設立された。 |
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陸軍予科士官学校移転敷地買収の依命通牒 昭和15年8月3日
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陸軍予科士官学校移転敷地買収の件
陸軍省大日記 大日記乙輯 昭和15年 「乙輯 第2類 第1冊 土地」 |
朝日新聞 昭和16年11月2日 |
*通称「朝霞又は根津遊園地」と呼ばれていた地域の正確な図面データ(面積、地図等)がない。 |
そこで各種の地図を参照してみると、膝折 昭和12年測図 一万部の一地形図に根津遊園地(矢印の箇所)と記されている。 |
上図の根津遊園地部分の拡大、参道の先に作業建物群が記されている |
昭和20年測図(米軍)に見る左図部分、建物群はなくなっている。 |
D昭和32年10月1日 理事会記録(年報4/p.190) 議題 埼玉県北足立郡朝霞町大字膝折字蛇久保、広沢原 国有地払下の件 定刻宮島理事長議長席に着席、出席理事過半数に達しましたから理事会を開きます。 議案に付き説明致します。 朝霞土地は元財団法人根津育英会の所有地にして登記面坪総計46,368坪を先代根津翁が思想善導の 為め一大構想の基に諸事着々進捗中、昭和15年9月突如軍に強制買上を受けたる土地にして終戦と同時 に占領軍に接収せられ進駐軍用地として国有地に編入され現在に至って居りました。最近進駐軍逐次引揚 げるに付き武蔵大学用地として大蔵省に払下を申請致したいと思います。 出席理事至極当を得たることと全員賛成する。 河西(豊太郎)理事発言、払下に対する対価其他一切の件は理事長一任としたいと述ぶ。是又全員賛成す。 E昭和36年10月17日 理事会決議録(年報7/p.8-10) 朝霞国有地払下げの件 議長から、去る6月7日開催の大蔵省国有財産関東地方審議会に於て、当法人に対する朝霞国有地の払下 げが承認せられたので、爾後関東財務局浦和部と払下げに関する事務的接渉に入り、既に土地の測量も終 った(22,257坪)ので「土地最終利用計画」提出の要に迫られている旨の報告が行われた。 F昭和37年9月14日 (大蔵大臣宛 朝霞国有地払下げ申請書の提出) 普通財産売払申請書 学校法人根津育英会 昭和37年9月 埼玉県北足立郡朝霞町(旧陸軍予科士官 学校)土地21,620.59坪 売払価額 政府指定の通り 使用目的 武蔵大学用地として使用 G昭和39年2月28日 国有財産売買契約 土地20,389坪 売買代金116,512,400円 H昭和40年12月14日〜昭和41年1月31日 整地工事 I昭和41年8月24日 駐留米軍ならびに防衛庁共同使用施設の使用解除陳情書 J昭和43年12月9日 武蔵大学校舎敷地の用途変更申請 K昭和44年7月2日 理事会記録(年報7/p.79) 朝霞校舎敷地を運動場に用途変更するために、当初契約時 と今回契約時との差額141,551,900[円]・・・・・ (注)朝霞土地の当初の用途による払い下げ価格は116,512,400円で、用途変更の結果として、朝霞 の土地代は258,064,300円となった。 |
解 説 Dは戦後初めて朝霞土地についての理事会記録です。これは宮島清次郎理事長の発言記録で、「先代根津 翁が思想善導の為め一大構想の基に諸事着々進捗中、昭和15年9月突如軍に強制買上を受けたる土地 にして・・・・」、これによって戦前の朝霞大伽藍建立計画に根津翁の身近にいてもっとも当時の事情 に精通していた宮島清次郎理事長の気持ちがうかがえます。そして旧地主として払い下げを申請するこ とが承認されている。 E理事会記録では「大蔵省国有財産関東地方審議会に於て、当法人に対する朝霞国有地の払下げが承認せ られた」こと、測量結果は22,257坪であった。 G国有財産売買契約では新川越街道(254号線)の新設等で土地は20,389坪となったと思われる。 I駐留米軍ならびに防衛庁共同使用施設の使用解除陳情書は正田建次郎学長・校長は江古田キャンパスか ら朝霞へ大学、高等学校中学校の全学園移転を構想し、約2万坪の朝霞土地では狭小のため、南側に併 せてかっての旧所有地域と同程度になる土地の払下げを申請したもの。しかしまもなく朝霞基地にホー クミサイルが配置されることが決まり、この学園移転構想は消えた。 K理事会記録(年報7/p.79)当初大学移転で申請したが、大学運動場に用途変更したため土地代が約二倍と なった。 |
膝折 根津遊園地部分(赤)の拡大、朝霞町蛇久保、広沢原、面積は46,368坪。
払下げの申請書に添付されていた旧所有土地略図を昭和12年図にトレーシングしたもの。
| 現在の状況、左図とは縮尺は異なる。254号線(新川越街道)が建設されたことにより 武蔵大学グランドは約2万坪となった。現・陸上自衛隊演習地にかっての大梵鐘、大仏製作現場の位置を書入れてみた。 |
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根津翁は「日本人は敬神崇仏の念に富み儀礼を重んずる国民であったが、ところが近来、無神論などという 極端な唯物主義者が現れて、我が国の美風良俗を破壊しょうとした」と思想の荒廃に危惧をもち、思想善導の 目的で埼玉県北足立郡朝霞町に静平閑雅な土地を得て大伽藍の建立を計画し着手した。大衆に接して大衆を 教化し善導する者は寺の僧侶が適任である。そのため僧侶から教育する必要がある。僧侶の教育のための学校 を創るには寺院も同時に建立するにこしたことがない。僧侶と大衆との結合する機縁が多くなる。出来るだ け多くの参詣人を集めて、その効果があがるような寺院を建立したいと期待した。自然に人が集まり、一方で 修養の道場となる。まず手始めに鳴る鐘として日本一の大釣鐘や奈良の大仏殿以上の大きい大仏殿を作り名勝 遊覧地たらしめ大衆が遊びながらにして信仰心を起こし得るような宗教道場たらしめたい。そして寺院や仏教 学舎はどの仏教宗派にも偏らない僧侶を養成するという仏教八宗の統一を目指した画期的な構想であった。 この日本仏教八宗の統一は今日においても実現されていないのである。 根津翁の考えについて、友人であり、もっとも良き理解者であった宮島清次郎氏は「其の頃日本の思想界が 非常に混乱し来りて、こころある者をして憂慮措く態はざらしめた。君も亦其の一人で、思想善導に力を致さ んと思ひ立ち、考えを此の方面に転ずることゝなった。君の憂へたのは極端な唯物主義の跋扈で、人々唯々 私利私欲に走り、我あるを知りて、国家あるを知らざるが如きは実に国家の大患であるとして、かゝる思想界 の混乱状態は徒に之を座視するに忍びない。・・・思想悪化の禍根は極端なる唯物主義であつて、無神論に基 づくものであるから、先ず宗教を以つて無神論を打破し、正しい思想を一般に植えつけることが必要である。 ・・・・仏教がよい。仏教にしても各派小異を立て、相争ふ現状はいかぬ。先ず、仏教の統一が必要である。 故に、茲に孰れの宗派にもよらざる一大殿堂を建て、学園を造って、そこから学僧を社会に多数送り出して、 社会を教化するの任に当らしむることにしたいと決心した。」と述べている。(根津翁伝 p.320-21) 根津翁はこの時代風潮と日本人の心の荒廃を嘆き、日本古来の仏教を通じて、日本人にとってなじみの深い 大仏や梵鐘、そして大寺院、大仏殿、五重塔、仏教(僧侶)学舎、自然公園等を建設し、名勝遊覧地として広 く開放し、より多くの人が訪れ、大衆に安心と娯楽をもたらし、そして伝統的な仏教を通じて人々に精神的な 覚醒と反省をもたらすことが出来ると考えた。 大正時代になると大衆の余暇、娯楽のために遊園地が作られるようになった。関東では3年に平岡廣高が作 った鶴見花月園をその嚆矢とする。欧州旅行で児童遊園地を見てきて児童の体育や健康のため遊園地を開設し、 東の宝塚とも呼ばれた花月園少女歌劇は子供達の人気のまとになり、子供の遊具や設備だけでなくグランドや テニスコート、茶店や五重塔やホテル、日本最初のダンスホールもあって、著名な多くの文学者、演劇、美術 家達が多く集った。しかし遊園地は常に新しい遊具設備を導入しないと大衆に飽きられてしまい集客率が落ち てしまうという常に投資が欠かせず経営の負担も大きいものであった。この後、電鉄各社が集客のため沿線各 地に遊園地をつくるようになった。 根津翁は今日的に云えば、朝霞の大伽藍をテーマパークにしょうと考えた。仏教の大仏や大梵鐘、大伽藍は 日本の歴史的、伝統的な宗教、信仰に基づくもので大衆が何度参詣しても飽きられるものではない。より多く の参詣者を集め仏教や僧侶との機縁を深めることができ、ひいては思想の善導につながるものとなる。一方で より多くの参詣人を集めることは寺院や仏教(僧侶)学校の経営や運営を保証するものとなる。このように 将来の寺院や学舎の経営を考えていたのである。昭和の大梵鐘や大仏作製は大伽藍建立の呼び物であって、 この製作段階の現場から観光客にオープンにすることは世間の誤解を避けるとともに口コミによる宣伝効果を 狙ったものであり、また地元の朝霞の人達にとっては将来の門前町としての発展につながるものであった。 根津翁は鉄道事業家であり、かって請われて疲弊していた東武沿線の大寺院を再興させ、繁盛させてきた 経験を述べている。それは群馬県太田市の呑龍さまや西新井大師であった。東武鉄道は大正9年から業務の 運用一本化などの経営合理化のため伊勢崎線の西新井駅から東上線の上板橋駅に至る11.6kmの西板線を 計画した。しかし12年9月1日関東大震災にみまわれ、さらにこの路線は大きな課題があり、それは荒川放 水路、隅田川、東北本線、赤羽線等を越える橋梁等の難問が控えており、その後敷設予定地の市街化、人口の 増加等により、昭和5年に敷設は不可能となった。しかし昭和恐慌の最中の鉄道経営の難しい時期の昭和6年 に西新井駅〜大師前駅のわずか1.1kmの鉄道を先行敷設し12月に営業を開始した。西新井大師の縁日に は数万人にのぼる参詣者の便を図ったのである。戦後は環状七号線との交差箇所が問題となり、一時は廃線を 考えたが、参詣人の利便や門前商店街、沿線住民の希望を容れ、この一駅間だけの路線を残した(東武鉄道 百年史 p.315-319)。今日では無人改札の高架線となっている。これらの例を見るまでもなく根津翁は朝霞 の大伽藍の完成時には東上線の路線を引き込むことも計画していたのである。 昭和の初期の時代背景を見てみると、日本経済は慢性的な不況が続き、昭和5年に金解禁を行ったが、前年 のアメリカのニューヨークウォール街で発生した株価大暴落は世界中に波及し、日本の昭和恐慌に追い打ちを かけ、多数の中小企業は倒産し、都市には失業者が溢れ、農民の生活は困窮した。昭和6年には軍が暴走して 満州事変が勃発し、7年2月には金解禁を実行した大蔵大臣井上準之助が暗殺され、3月にはドル買いによっ て巨額の利益をあげた三井財閥の総帥団琢磨が暗殺される血盟団事件が続いた。次いで軍の青年将校達による 五・一五事件がおこり犬養毅が凶弾に倒れた。11年には軍の青年将校による反乱二・二六事件が勃発した。 中国では12年8月には第二次上海事変が、朝霞の大仏の原型がほぼ完成したと考えられる、12月には南京 事変が起きている。これらを契機にして軍人がしだいに国政を支配する騒然とした時代であった。 根津翁の国家観は思想的には伝統的、保守的な立場であり、産業報国を念頭に実業活動を行ってきたことか ら、国政や国策そして日中戦争などの時局に対する自らの思想を明確にすることはなかった。根津翁の思想を 解明することは今後の研究の課題である。だが戦争に対して歴史的に見て平和の象徴である大仏の建立や寺院、 僧侶学舎の建設という対局からおのずと明かになるように、晩年の根津翁があえて自らの資産と身を削って、 これらの計画に着手したことは、その根底に愛国心と日本国民の生活の安寧を強く希求し、このために全力を 注いでいたと見ることが出来るのである。朝霞の大仏、大寺院、自然公園の建立は根津翁によってのみ実現可 能な壮大なプランであった。宗教家でもない一個人が独力で奈良の大仏に匹敵する大仏を建立し、大仏殿や大 伽藍そして僧侶学舎や自然公園を建設するという、かって我が国の歴史上このような人物は存在しただろうか、 もし戦争に阻まれることなく、実現していたら、朝霞大仏や大寺院は名実ともに昭和の大伽藍として多くの 人々が訪れる名所となり、根津翁が考えたように大きな役割を果たし得たと考えられる。残念ながら戦争につ き進む時代の趨勢はこの実現を不可能にしてしまったのである。 その意味で、昭和の日中戦争からやがて太平洋戦争の開戦に至る軍国主義の時代に、晩年の根津翁が独力で 朝霞に建立しようとした昭和の大仏に託した思いを研究することは意義深いことで、いままでの根津像を改定 することにつながり、根津翁の計画を理解し、期待を持って温かく受け入れた朝霞の人々ともども再評価され ることと思われる。 |