校内を流れる元千川分水の濯川(16年4月)


1.千川上水 −今と昔−(昭和14、15年頃の写真を中心として) 平成8年3月


今年は千川上水開削300年目にあたります。当記念室には、旧制七年制高等学校のころの民族文化部門の生徒達による調査
研究報告『千川上水』(昭和16年刊行)の元になった写真アルバム4冊(約160枚所収)が保存されています。昨年の春
の「桜を観る会」には、記念室にも2日間で約千人の地域の人達の見学者があり、この中の多くの方々が千川上水の写真に関
心を寄せて下さいました。今年は、この写真アルバムの中から約80点を選び、これに最近の実地調査(当記念室職員と武蔵
大学学芸員課程の3名の学生とによる)の写真を加え、千川の今昔を比較して見ていただくために展示しました。この取材中、
当時の写真に今も残るお宅を訪ねて千川について伺ったり、たまたま道で行き会ったご老人から、ご子息が描かれたという千
川の桜の絵を見せていただいたり、地中に深く埋設されてから50年以上経った今日でも、多くの地域の人達の記憶のなかに
“千川上水は生きている”のだという印象を受けました。「なぜあんな美しい千川上水を壊してしまったんだろう」というご
老人の一言が耳に残っています。3百年にわたり地域の人々の生活に密着し、まさに生活に潤いをもたらしてきた千川の大部
分は、地中深くコンクリートのヒューム管の中を細々と流れているのです。上流域の武蔵野市から練馬区の一部までは清流が
復活されていますが、中下流域では依然として暗渠のままで、一部地域の復元計画も中止されたままです。このささやかな写
真展が地域社会の人々にとって昔日の千川上水を懐かしむよすがとなるだけでなく、いつの日にか、これらの千川をよみがえ
らせるための一助になれば、望外の幸せです。当時研究調査にあたり、多くの写真を残した高等学校OBたちにとっても大き
な喜びでありましょう。




2.江戸上水と千川上水関係略年表


天正18年   徳川家康は江戸入国に当たり城下に飲料水を供給することが急務であったため、大久保藤五郎に命じ小石川上
(1590)  水(後に神田上水に発展)を開設した。小石川上水は江戸の東北部に給水していたが、西南部の市街では赤坂
        の溜池の水(参考絵図「江戸水道のみな上」とあり)を引いて上水としていた。

[慶長〜寛永] 神田上水 武蔵野の井ノ頭の池を主要水源とし、多摩郡牟礼村善福寺池、妙正寺池の水流を集めた
                江戸川の水流を目白下の関口に堰を設けて分水し、小日向台の下を開渠で通し、小石川の水戸邸をへて水道橋
                で懸樋で神田川を渡した。給水地域は江戸下町の北半分の広範囲に及んだ。維持管理のため上水組合が組織され、
                水銀を徴収した。明治24年6月東京市の上水道の完成により一般給水を停止した。

承応2年    玉川上水 江戸市街発達に伴い、神田上水、赤坂溜池の水をもつて供給することは不足になり、幕府は多摩郡
(1654)  羽村に堰を設けて多摩川の水を取り入れ、四谷大木戸(内藤新宿)まで約43キロの開削水路を通した。
                幕府は庄右衛門、清右衛門の兄弟に工事請負を命じた。3年6月竣工。この功により2人は2百石の扶持を与えら
        れ、玉川の名字と帯刀を許されるとともに玉川上水役を命ぜられた。玉川上水は武蔵野台地の村々の生活用水、
        潅漑用水としても分水され、新田開発に大きな役割を果たした。また川越藩は玉川上水の開削と同時に野火止
        新田の開発に着手。同4年多摩郡小川村で玉川上水から分水された野火止用水を開削した。

万治2年    本所上水開設される。隅田川の東の方の新市街地に対して、北埼玉郡蒲生村瓦曽根の溜井から水を引いた。
(1659)

万治3年    青山上水新設。四谷大木戸のところで玉川上水の 余水を引いて、青山、赤坂、麻布、芝方面の新市街地へ給
(1660)  水された。       

寛文4年    三田上水 玉川上水の水を下北沢村の地点から分水して、三田、芝、金杉方面に給水した。
(1664)

元禄9年    千川上水創設 武蔵野国新座郡上保谷村地先で玉川上水から分水して、豊島郡関村、多摩郡井草村等の村々
(1696) (武蔵野段丘)を経て豊島郡巣鴨村から(伏樋で)市街が拡大してきた本郷、湯島、外神田、下谷辺に給水し
         た。本来は小石川御殿(現東大植物園)、湯島聖堂、上野東叡山寛永寺、浅草御殿(浅草寺)への上水で
                あり、河村瑞軒の設計による。「元禄九年子年多摩郡保谷村より玉川上水を引き、巣鴨村迄5里5[2]拾4町
                掘割庚申塚通リ、本郷、湯島、浅草へ懸る。仙川村太兵衛、徳兵衛開発仰せつかり、仙の字を改め千川を両人の
                姓に給る」。千川太兵衛、徳兵衛はこの上水・用水の管理にあたったが、その職は代々千川家に受け継がれた。

宝永4年    千川上水は開削10年後に沿線20ヶ村の嘆願により、潅漑用水として利用を許した。沿道の水田は天水にて
(1707)  干害に苦しみ、上水の吐水を潅漑用水に引くため、関、井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村等7個所
                の分水を設けた。水料として米田1反歩に付玄米3升宛差し出させる。

享保7年    玉川上水、神田上水だけを残して、千川上水、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を
(1722)  廃止した。突然の廃止の理由は儒学者室鳩巣の地下水道の発達によって地脈が断たれ火災が頻発するとの説を
        吉宗が取り入れたと言われるが、水樋の維持、管理に金がかかること、また当時鑿井の技術が進み掘抜井戸が
        掘られるようになったことが考えられる。千川上水は不用、差し止めとなり、巣鴨村にて締め切り、村々の潅
        漑用水となる。この時青梅通り、川越通りに懸かる土橋七個所の新規修復。

享保17年   千川上水は元樋竪3尺横3尺5寸のところ、1尺4方1間暗渠に縮小され、各村潅漑用水不足を生じ、水量増
(1732)  加を嘆願。

元文2年    千川上水元樋内法1尺5寸横2尺の長さ1間の埋樋を許可されるも、なお用水不足の重ねて嘆願あり。
(1737)

安永2年    内法1尺七寸横2尺3寸の長さ3間の埋樋を許され、水量増加の為運上金として以後毎年金4両1分の水税を
(1773)  上納する。    

安永9年    千川上水は本郷、湯島、外神田、下谷、浅草辺の上水としてふたたび使用される。 (1780) 天明6年    千川上水は上水としての使用を廃する。 (1786) 元治元年    千川の潅漑用水利用組合村は関、上・下石神井、中新井、江古田、葛ヶ谷、長崎、池袋、中丸、金井窪、滝野 (1864)  川、巣鴨等の千川幹線の村々と青梅街道に沿って分水される用水を引く阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、上井草、上         鷺宮、中村等の18ヶ村の全水田面積の6割にあたる111町歩の水田に分水していた。   慶応元年    豊島郡滝野川村地内へ反射炉を建設し、千川上水の水力応用し水車を運転する事とし、工事を行う。 (1865)                 明治3年    羽村村土木司御役所より、玉川上水に水運を開き舟筏を通すため旧来の直分水を廃止し、多摩郡砂川村地内各 (1870)  村合併口より分水となる。千川上水は水勢微弱にて嘆願したるも不許可なり。やむを得ず合併口組合ニ加入し         て分水せるに、はたして水量不足のため潅漑用水にも支障を生じたり。玉川上水に通船開設、羽村から四谷大         木戸迄の間、村々の産物諸品輸送のために約2年間にわたり通船が開設された。川幅拡張、船溜の設置、帰途         馬によって船を引くための道路等を開設。 明治4年    千川上水 境橋上流の分水口に変更。 (1871)     明治6年     板橋火薬製造所に分水。 (1873) 明治8年    王子製紙会社、大蔵省抄紙部に分水。 (1875) 明治13年   千川水道の再興。岩崎弥太郎外3名が千川水道会社を設け、千川水道を再興して本郷区、下谷区、小石川区、 (1880)  神田区の飲料にするため通水を再興する。 明治14年   千川水道取締禁令を定める。 (1881)          第1條 魚鳥ヲ捕リ、及ヒ遊泳シ、又ハ諸品ヲ洗フベカラズ          第2條 塵芥瓦礫、其他汚穢物ヲ投棄スベカラズ          第3條 上水ニ沿フタル各地面ヨリ、汚水混入セシムベカラズ          第4條 堤上ノ竹木、及ヒ下草等伐採スベカラズ          第5條 水道敷地内ヘ諸車ヲ挽きキ入れ、又ハ牛馬ヲ牽キ入ルベカンラズ。但、道路ニ係ル分ハ              此限ニ在ラズ 明治40年   東京市の改良水道の普及により、千川上水は飲料水としての給水が廃止となる。岩崎邸六義園、王子方面の用 (1907)  水は存続。 明治41年   千川水道会社は解散し、千川水利組合が結成される。 (1908) 昭和13年   千川上水の水利権者は内閣印刷局の抄紙部、陸軍火工兵器廠、岩崎家(現六義園)、妙正寺川谷の水田、練馬 (1938)  の一部水田所有者 昭和21年   板橋浄水場が設けられる (1946) 昭和23年   10月11日付で練馬区議会議長から、千川上水の管理権を千川上水利用組合から都の河川課に移して、千川の (1948)  さまざまの弊害(降雨時の氾濫による浸水被害、転落溺死、道路が削られる等)を除去してほしいという一通の         意見書が東京都知事に提出された。 昭和25年   5月地元住民は練馬区議会に千川上水の暗渠化工事促進を要望する請願書を提出した。区ではこれを受けて都当 (1950) 局 へ請願し、26年度に練馬区内での第1期工事予算が計上された。 昭和27年   3月練馬区の暗渠化工事着手。千川上水路が暗渠となり、道路拡張されていった。 (1952)        昭和28年   千川上水 武蔵学園前暗渠となる。 (1953) 昭和29年   保谷市保谷新田地先の玉川上水取水口を廃止し、武蔵野市関前地先に新しい取水口を設ける。 (1954) 昭和45年   東京都水道局(板橋浄水場)千川上水からの取水をやめる。 (1970) 昭和46年   大蔵省印刷局王子工場が千川上水からの取水をやめる。 (1971) 昭和59年   下水処理水の活用による野火止新用水復活 (1984) 昭和61年   下水処理水の活用による玉川上水復活 (1986) 平成元年〜   千川上水の復活(開渠化)(武蔵野市、練馬区、豊島区(計画)) (1989〜)



3. 江 戸 上 水 ( 水  道 ) の 興 廃

 
     元禄9(1696)
     享保7(1722)
 

千川上水
安永9(1780)
天明6(1786)

再興

 
明治13−40
(1880-1907)
千川

水道



 
 


 
寛文4(1664)
 三 田 上 水
享保7(1722)

               
                      
 


 
  万治3(1660)
      青 山 上 水
  享保7(1722)
麻布水道
     明治15−17
(1882-84)


 
 


 
本所上水
万治2
天和3

元禄元

享保7
亀有上水ともいう

 


 
承応3(1654) − 明治34(1901)
          玉 川 上 水
 




天正18(1590) −  明治34(1901)
            神 田 上 水
 


 
 






4 江戸時代上水図(千川上水絵図を元に作成 H87 × W55 センチ)


神田上水、玉川上水、千川上水、青山上水、三田上水の各系統を彩色し、これにカラー複写した江戸名所
図絵の主要個所の図23枚を周りに添付し、絵図上の位置を番号でつなげ参照出来るようにしたもの。
多摩川、平林寺(野火止)、小金井桜、練間、石神石明神祠、石神井川、練馬三宝寺池、板橋、高田−
姿見橋−俤橋、井の頭弁財天、落合惣図、落合一枚岩、目白下大洗堰、芭蕉庵、淀橋水車、四谷大木戸、
赤坂溜池、板橋駅、巣鴨庚申塚、お茶の水(水道橋)、金龍山浅草寺、湯島聖堂、東叡山上野寛永寺、
桜ガ井

千川上水跡(新編武蔵風土記稿)


(1)千川上水跡  新座郡保谷村ヨリ玉川上水ヲ分チ、本郡巣鴨村マデ、行程六里余掘割アリテ、巣鴨庚申塚
ヨリ、本郷・湯島・浅草辺ニ通セリ、是元禄九年起立アリシ所ニシテ、小石川御殿・湯島聖堂・東叡山・浅草御殿
等へ掛リシ上水ナリ、多摩郡仙川村百姓太兵衛・徳兵衛ト云モノ台命ニ依テ此事ヲ奉ス、故ニカノ村名ヲ以テ名ト
シ、文字ハ千川ト改メ、事ヲ奉セシ村民2人ノ氏ニ賜リ、且江府ニテ屋敷地ヲ賜フト、此上水享保七年廃止セラレ
テ、寄村々ノ用水ニ賜フ、又事跡合考ニ千川上水ハ常憲院殿ノ御代、板橋ノ西練馬ノ南、石神井池ヨリ本郷及柳原
筋ニ引レシ水流ナリシガ、文昭院殿ノ御代、停止セラルト見エタリ、然ルニ明和六年再ビ此事ヲ起シ、安永年中落
成シテ、庚申塚ヨリ駒込・本郷・湯島・下谷・浅草辺マデ掛リシガ、便ナラザルヲ以テ、天明六年又廃セラル、今
多摩郡関前新田ノ辺ヨリ、当郡関村・中村・中荒井村・下板橋宿・滝野川村等ニ其堀残れり、流末ハ滝野川ニテ石
神井川ニ入、其間近近郷用水ノ助水トナレリ、堀幅4・5尺、或ハ広キ所モ九尺ニ過ズ。(滝野川)

5 展示品


(1) 千川上水絵図(複製 千川善蔵所蔵) 『東京市史稿』 上水篇 第1巻付録

享保初め頃(1715年)の絵図、玉川、神田、千川、青山、三田の各上水が記されている。解説には正徳 末頃と記されているが、千川上水に「御鷹部屋ヘ掛ルモノ」とあり、鷹狩は8代吉宗により復興されたのは 享保元年であるところから、享保初め頃のものと考えられる。しかし数年前千川家より練馬の郷土資料室に    寄贈された千川上水関係資料の中に千川上水絵図(製作年不詳)が一点あり、上記の箇所は記されていない。

(2) 江戸名所図絵 斎藤月岑編、長谷川雪旦画 天保7刊 20冊

   見開き展示 「水道橋絵図」、「四谷大木戸」

(3) 木樋(武蔵高校民族文化部蔵)

  地中に埋めたいわば水道管

(4)永禄年間(1557−70)江戸図(御江戸図説集覧 橋本兼次郎 嘉永6刊)

 

(5) 水売り(浮世絵 複製) 鈴木春信画 明和2刊(複製)

(6) 東京市史稿 上水篇 第1、2、3巻、 3冊

(7) 井戸図(守貞慢稿より抜粋)

(8) 江戸の上水図

多摩川からの玉川上水を中心とした江戸市中の上水。左の青が千川上水、その右の赤が神田上水。「東京市史稿 上水篇」付録の千川上水絵図を基に作成。

(9) 各種文献、図書(玉川上水、千川上水関係)

(10)武蔵野市ー練馬区(1万分の1地形図、等高線図)等高線彩色

   千川上水、千川分水記入作成図(H76 X W96 センチ) 

(11)千川上水境界石

  (実物、コンクリート製、H80×W15×15センチ、重さ約25キロ) 
     道路と千川との境界を示す石柱で、現在では数が全水域を通じて2、3ヶ所にしか保存されていない。

(12)千川上水関係主要新聞記事ボード 1面




(13)千川上水踏査地図 4面


2万5千分の1の地形図に踏査した千川上水の水路を記入し、昭和14、15年頃の写真の現在の姿
        を記録した写真を付した。



6 千川上水写真アルバム 4冊

(主な写真は「千川上水 写真と探訪」上流編、下流編で見ることができます。)
『千川上水』武蔵高等学校民族文化部 昭和16年刊の調査写真約160枚を所収。今回の千川上水写真展の元の資料。
なお写真パネルの説明は『千川上水』及び同写真アルバムに記載されているものを出来るだけ用いた。展示写真パネル
のモノクロで説明に年月の入っていない写真は上記の昭和14、15年に撮影したもの。現在は練馬区の文化財指定と
なっています。


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