武蔵野の面影を残す木楢(幹周り2.8m)の芽吹き。濯川の欅橋の春の萌黄と秋の紅葉。 |
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濯川の先には田圃が広がる。川の周辺にはまだ緑が少ない。昭和7.2.19 AM10:00 上空250m(陸軍所沢航空隊撮影) | 濯川の周囲の樹木が成長してきている様子がはっきりわかる。昭和11.12撮影 |
1.濯川(すすぎがわ)の歴 史・・・流域200mの東京で一番短い川・・・ | |||
濯川は武蔵学園(武蔵大学・武蔵高等学校中学校)(東京都練馬区豊玉1−26−1)の江古田 キャンパスの中央を流れる小河川です。現在は水源が限られているため、循環方式で水流量を保ってい ますが、川沿いの景観はいち早く季節の到来を映し、ときに水は澄んで水音が川辺の樹々にこだまし、 野鳥たちは水辺に集い戯れて、都心に近いことを忘れさせてくれるほどです。大正11年の旧制武蔵高校 開設されましたが、当時は川の周辺は田圃や畑があったため、樹木はあまり植えられおらず、農村では 何処でもみられたように田圃のあぜ道の脇を流れる小川といったような風景が想像されます。その後 教職員や生徒たちが、後述の記録や写真にあるように何度もお金を寄付して樹木を買い、川の拡幅や周囲 の植樹に多くのひとたちが汗をながしてきたのです。今日、これらの植えられた樹木の何本かは、まさに 天を衝くほどに生長し、あるものは幹周り4メートル以上の大樹となって大きく広がった枝葉は緑陰の涼し さをもたらしてくれます。春の桜や萌黄と新緑、秋には錦繍の彩なす美しさは、優美にして崇高であります。 このように川の周辺の樹木や景観の自然環境は喧騒な都市に暮らす我々にとって、一時の安らぎをもたら してくれる、かけがえのない貴重な財産となっています。 しかしながらあまりにも身近にあるため、川の景観・環境について関心をもつている学生・生徒達は 意外に少数です。卒業して写真(武蔵花暦など)を見てはじめて川の景観と樹木の環境にいたことに感動 したという人が多いのです。そこで、濯川の沿革、命名の由来、植林の記録など、史料に基づいて精確に 記しておくこともあながち無意味ことではなかろうと考え纏めてみました。 大正10年甲州出身の実業家根津嘉一郎(初代)は国家的な人材を育成せんと育英事業を発起し、「・・・
落合村中新井に土地を選んだ。併し土地を買ふに際しては、学校を建てると云うことでは種々な影響が
あるので、二万五千坪の敷地を黙って買った。其中には家が六軒、墓地が七ヶ所あったが、それを他の土地
と交換したり、或ひは買受けたりして、漸く敷地を得たのである。」(世渡り体験談) この川の歴史は古く、今から308年前の元禄9年(1696)に江戸の下町の上水(水道)として武蔵 丘陵の背を開削された千川上水に由来します。千川上水は玉川上水の水を今日の武蔵野市の境橋 付近から取水し五里先の豊島郡巣鴨村へ通し、ここからさらに木樋(木製の水道管)によって白山、本郷、 浅草、上野といった方面へ、当時はまだ井戸掘り技術も未熟で、また低地のため良い水に恵まれなかった 江戸の下町一帯の庶民の飲料水となりました。おおざっぱに年代的に見ると次のようになります
実はここに出てくる中新井分水の一つがこの濯川のルーツです。この中新井分水といわれるものは3本ありました。 第1番目は、西武池袋線の練馬駅の西方で千川通りが目白通りを横切って西に数百メートルのところからほぼ南に分水 が流れていました。千川通りから。現在は暗渠になっていますのでマンホールの蓋を目印にして辿って行きますとやがて 住宅街に入り、かっての流路は今は道路となっていて周囲の状況から以前ここに川が流れていたことがしのばれます。 分岐から15分程で学田公園に至ります。実は千川の上流にあたる、今の中村橋駅の少し東のグリーンベルト(この地下 のヒューム管に千川が流れている)の大山不動尊のあたりから南の通りに沿って分水していたのが中村分水で、これは 南蔵院の付近の田圃を潤して、同じく学田に入っていました。そしてこの学田が中新井川の源となっていました。第2番 目の中新井分水は、桜台駅の南前の交差点にあるコヒー店と青果店の間の細い路地を南に流れていた細流で、桜台分水や 弁天分水とも呼ばれていました。この軒を接するような路地を境にして、番地が変わっているところが歴史を物語ってい ます。 第3番目にあたるのが、武蔵の濯川で、千川本流から武蔵学園の講堂の裏付近の位置から学園内に取り込まれていた分水 です。大正11年の武蔵高等学校の開学時の史料を見ますと、以前の学園内には数軒の農家と田畑、そして数カ所の墓地 (それは大欅や一の橋と高中のテニス壁打場の中間の一段高くなった樹間など)がありました。後述の証言にあるように、 昭和初期には小さい幅一尺位の細い溝川が流れておりました。そして現在の中の島あたりに野菜の洗場があったり、川沿 には田圃があったようです。武蔵高等学校では、1925年にこの千川用水の分流を拡幅し、後述の名の由来のように 濯川と命名しました。その後川の流れの位置や川幅をたびたび改修してきました。とくに一部に島をもうけ庭園式にしました。
千川上水は開設以後、上水としては幾多の変遷がありましたが、用水としては戦後まで通水していました。戦後東京市街の発展・拡大
に伴い練馬の近郊農地にも宅地化の波がおとずれ、しだいに近郊農業も衰退の一方をたどり、千川用水の使命も終わり、千川本流も暗渠化
され用水は下水道になっていきましたが、これには戦後相次いだ大型台風による水害もこのきっかけとなりました。
前記の文書によると、明治10年頃には1、2番の中新井分水ともに、この周辺の約11町歩の田圃を潤していました。
これは坪数になおして3万3千坪となり、現在の武蔵学園キャンパスの約1.5倍の面積になります。このような状況は昭和に入っても
続き、記念室に残されている航空写真でその様子を見ることができます。 |
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八角井戸「平城京跡から出土した木製八角井戸」を原寸にかたどった右の木製水槽枠の内側に濯川の由来 を書家矢代素川氏が墨書し、この水の中に沈められている。千年の後までも残したいとの思いが込められている。八角井戸 から下流を見る。 |
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十年橋碑と一の橋脇の水飲み場。エネセンや図書館棟の地下にたまった湧水。かっては飲料可 であった。現在の濯川の水源としては雨水はもとより地下水、プールの排水なども有効に活用している。 |
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昭和7年5月 加藤虎之亮教授揮毫の欅橋。昔からある不動明王石像。
2.濯 川 の 名 の 由 来 |
滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足そうろうのみずすまば、もってわがえいをあらうべし、そうろうのみずにごれば、 もってわがあしをあらうべし 屈原 「漁父」(楚辞 巻七)意:追放された屈原が沼沢地で漁父にあい、処世につき問答す。屈原は潔白な生き方を貫こうとするのに対し、 漁父は世の清濁に応じて生きよという。滄浪は揚子江の支流漢水の下流の名。纓(えい)は冠のひものこと。 |
す ゝ ぎ 川 の 記 の 叙(山本良吉) |
校舎と運動場との間に谷がある。そこに以前小さい用水が流れて居た。開校の頃、生徒は運動がすめばそこで手を
洗ひ、家づとに大根を買へば土を洗い落した。その後運動場の整理と共に、幅を広くし、橋をかけ、島を築き、両崖
には花卉を植え、流に沿うて小径を造り、そこにはプラタナスを植えた。ケム川の岸、それに沿うた森が幾多世界的
偉人を生じた如く、この川岸からも世界の運命を支配する人材の出るのを望む積りで、武高のケム川と仮称したが、
更にすゝぎ川と命名した。固より屈原の漁父辞から取ったのである。川の前身から知って居る文科三年生に命じて、
その記を作らせた。川が代わった如く、生徒の思想も文章も変わった。中には意外と思はれる佳作もあつた。
川の水、時には澄み、時には濁る。丁度われ等の心が時には晴れ、時には曇ると同じく、又人生の運に時には幸が
あり、時には不幸があると同じである。いづれ二元の間に徘徊するわれ等は、この川が二相を呈するのを咎めむべき
でもあるまい。清い時には清きに処し濁った時には濁りに処する。幸が来れば幸を受けん、不幸が来れば不幸を迎へ
ん。この小川が自身のの清濁を一向知らず顔に、ゆるゆる、しかも止まずにその流れを続ける如く、われ等もわれ等
の道を辿りたい。川沿いの木、今は尚小さいが、他日それが大きくなって、亭々として天を衝くとき、今の諸生が
その下逍遙して、想いを今昔の間に回らせば、かならず感ににたへないものがあらう。今諸生が見るその水はその頃
には流れ流れて、いづこの果に、どうなってあるか考えることもできまい。しかし在る物は永遠に消えぬ。独り水辺
に立って、静かに行末を思ふと、われ等の心は自然に悠遠に引きこまれて行く。・・・・・
昭和3年8月9日 久雨始めて晴れた朝、 山良生〈文献:校友会誌 8号〉
注:ケム川(River of Cam)英国ケンブリッジ大学構内の川、この川にかかる橋が大学の名の由来といわれる。 山本教頭は「欧米の学生生活状況調査」の途次、大正10年3月9日にケンブリッジを訪れ、ケム川を舟で周遊している。 |
拡幅された濯川と欅橋 | 植樹された欅橋(昭和7) | 欅橋を望む(昭和15) |
欅橋とは大欅から名付けられた。(昭和15) | 一の橋から集会所を望む | 今はない講堂近くの佐野橋(昭和15) |
中央は霜よけされた九州からの楠(昭和15) | 現在は大きく成長し幹周りは3m(平成15) |
3.学園の史料にみる濯川と構内植樹の記録 |
大正12年 |
大正14年
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昭和2年 |
昭和3年 |
昭和4年 |
昭和7年 |
昭和8年 |
昭和10年 |
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年 代 で み る 濯 川 の 変 遷 図 |
1923年4月 1926年4月 |
1928年4月 1941年 |
4.学園史料に見る「教職員、同窓生のみた濯川周辺と植樹史」 |
◇旧制武蔵高等学校創立当時回顧座談会速記録(昭和11年)より 校庭、濯川、樹木など 佐久間 田村先生、学校内のいろいろな建物とか、その他の状況に就いて簡単にお話下さい。 田村[友三郎]先生 私は最初から来たのではありませんで、丁度この、今の校舎の両翼の建築が出来て、そこに 生徒が移りました年に初めて来たのでありますが、その当時は学校の前の通り、只今柵のあります所に高さ三尺位の細い丸太 を一間おき位に打ち込みまして、そうして針金を取り付けてあっただけで、それも所々倒れたりなくなったりして、通りから 今の校舎までの間は人が勝手に入ってくることが出来たようであります。それから、只今毎日君達が会合せられております 中庭でありますが、所々に大きな深い穴がありまして、今君達が集合して居る[注:当時、二限と三限との間の二〇分休みに 大欅のある中庭で生徒集会が行われていた]、丁度和田先生のお部屋の前、もう少し生徒実験室の方に寄りました所 には、人が中へ落ち込みますと背が隠れてしまう位の大きな穴があったり何かして、極めて不規則な所でありました。それ から、実験室の前の温室のあります所は、建築をしました時のいろんな不要品があそこらに皆投げ捨てられて、コンクリート の固めたようなものが沢山ごろついて居りました。又、その辺には小さい幅一尺位の細い溝川が流れておりましたが、 それを越しましてから、間数で三、四〇間、或いは四,五〇間もありましたか、普通の畑が二枚位の広さ、今のテニスコート の左の低い所から中之島のある辺にかけて、ずっと田圃であったものです。その田圃を越しまして向うの方はだらだらの斜面 でずっと上がって、そうして君達が皆土を取っりましたあの辺迄[注:昭和六年の学科課程改正により、高等学校尋常科各学 年に作業の時間が設けられた。武蔵でも昭和七年にこれを実施に移し、実際の作業としては、校庭南端の高い所の土を取って、 講堂西側の低地を埋め立てるのが主な仕事であった。尚、丁度この昭和一一年頃には校庭西側の低地を埋め立てて、高等科 二寮の移転先整地をすることも作業の課題であったと思われる]、ずっと田圃を越えてからだらだらになって高くなっており ました。 それから校舎の西南、今の一の橋付近、あそこは建物からすぐ非常に急に田圃に向かった斜面でありました。運動場と云うも のも何もなかったので、どう云う風に運動場を拵えるかと云うような案を立てられまして、これを請負の者にかけたのであり ます。毎日労働者を七,八〇人も入れてそうして向こうの高い所の土を取ってその低い所を埋めたのです。只今テニスコート の脇の倉庫のあります辺は、少なくも六,七尺もの土を積んだと思います。校舎の西南部も凡そそれ位積んだろうと思います。 溝川はそれを掘り替えまして、講堂の後ろの入り口から斜めに校舎の西南の角へ向かって流れて居ったのをまっすぐに島のあ る所へ導き、現在の形に掘り拡げたものです。中の島の運動場寄りのところには、以前から百姓が大根を洗う洗い場があった のです。【その洗い場に向かってまっすぐにあの溝を掘り替えて、そうして同時に今度はこれは根津[初代・嘉一郎 学校 の創立者]さんの指図でありましたが、】川幅を広く【しようじゃないか、その広く】すると云うことに就いては大分問題 があったのでありますが、根津理事長は、ナニ問題が起こればおれがどうにでもする、かまわない、やれやれと云われましたの で拡げられ、そうして又非常に深く掘られたのです。只今は埋まってしまいましたけれども、掘りました時には殆ど乳の没する 位の深さがありました。そう云う風に学校の地形というものは、初めから見ますと殆ど一変してしまって居るのでありますが、 先程から和田先生のお話のいろいろなものを生徒に植えさせられた場所は、この地形になる前の用水から向こうの所で、 今の雨天体操場や集会所のある所が大体中央部であったかと思います。そこいらを使って植えさせられたものです。それらも只今 御覧の通り建築をしております為に、削ったり積んだりいろいろ致しまして、今のような形に変化して居るのであります。 (昭和8年高一理生による玉の橋付近の改修) それからこの学校の多くの木は皆それを池袋にあります根津財団の、俗に謂う根津山と云う所から取って来て植えたものであ りますが、非常にこれが成長し、茂って居るのを見て、自分もえらく年を取ったなと云うような感じがするのであります。持 って来ました時はまだそんなに大きくもなく、そんなに繁っても居りませんで、山本先生から、屡々道路が透き透きに見えな いように、木を植えろ木を植えろとご注意があり、その通りする積もりでやって居りましたけれども、なかなか先生の御満足 のようには出来なかったのですが、只今では殆ど往来から見透かす云うような所がなくなりました、それだけに木も成長し、 繁りまして、まるで学校の地形及び植木の有様が一変したような次第であります。 和田八重造先生 木の話が出ましたから一つ申し上げて置きたいのですが、最初の年はまるで磧に家が建ったようなもの です、それで何処かから木を購入してきて植えろと云うので、安行と云う所からこの学校の建った年の5月、【実は私は今でも 兼任が多いのですが、一緒に買いに行くことが出来なかった、それで教頭自身が私共の助手を連れて安行へ行かれた、そうして】 買ってきて植えたのであることを今日思い出したから見に行った、他のものは覚えて居りませんけれども、丁度博物教室であっ た今の剣道場の向こう側の所、そこに黄金木が一本残って居る、あれは親指くらいの大きさの苗木が二本あったのですが、今は 一本だけ残っております、太さは一米もあります、木の方はあんなに大きくなるのに、我々の仕事はちっとも大きくなりませんが、 あれがこの学校と殆ど年齢を等しくして居る訳です。 それから此処に楝(せんだん、おおち)の木があります、楝は二十本ばかりありますが、あれは大正一二年の春蒔きまして、 そうしてその実から大きくなった、本当にこの学校の子飼いなんです。丁度一三年か一四年になります。あれともう一つは今の 集会所の裏の畑の西の隅に四本のむくろじゅ[むくろじ]の木があります、あれもあの時一緒に蒔いた種から育ったのです。 沢山蒔いたのですけれども、あっちへ動かされこっちへ動かされして、四本になってしまいましたが、都合よく二本が雌で二本 が雄です、昨年初めて実がなりました。[むくろじゅはご承知の通り非常に化学の方から言っても面白い木で、石鹸の代わりに なります、そうして種子は羽子板のあれ(羽根つきの羽根の頭)につかう]楝の実は松浦と云う助手が、温帯の暖かい所によく 出来ますその実を、冬休みに郷里の土佐から背負ってきた、それを大正十二年の春蒔いたのですが、それがあれだけの大きさに なって居る。これは所謂栴檀は双葉より香ばしと云う栴檀じゃないが、小さな紫色の花が沢山咲きまして、富士山のような枝ぶり になります、その下で勉強するには極いい枝ぶりです。そうして勉強するのに眠くなる時分に花が咲きますが、非常にいい匂い がします。[注:現在(二〇〇三年)も、東門脇と一ノ橋脇とに大きな楝があるが、これは改築前の鵜原寮前庭にあった楝の種 を生物教室で育てて、植えたものである。鵜原寮の楝が旧制時代に学校の楝の種を分けたものであるかどうかは不明] (文献:武蔵学園史年報 9号;2003所載) |