武 蔵 学 園 の 沿 革









武藏のシンボル白雉は続日本紀神護景雲2年武藏国献白雉」の故事にちなむ

江古田キャンパス全景 2010










武蔵大学 朝霞グラウンド(約22、000坪)及び朝霞プラザ(学寮)




  
年   月

武 蔵 学 園 沿 革 (1919〜2008)

1919
大正8.12

・初代根津嘉一郎育英事業により社会に貢献せんと友人、 知人の参画を求めて評議員会をつくる。本校創立事情記録によると大正4年頃から当時の文部省事務官であった本間則忠より育英事業の勧奨をうけ、友人の正田貞一郎、宮島清次郎に相談し、賛同を得て慎重に準備してきた。
1921
大正10.9

・財団法人根津育英会設立
理事長:根津嘉一郎、理事や評議員として、根津啓吉、正田貞一郎、宮島清次郎、本間則忠、 平田東助、一木喜徳郎、岡田良平、山川健次郎、北條時敬、佐々木吉三郎。一木以下は当時の日本の教育界の重鎮や第一人者で、学制改革を目指していた臨時教育会議 (総裁:平田東助)の主要メンバーでもあった。
・上記の人物略伝については別編参照:墨跡、文献目録

1921
大正10.12

・新高等学校令にもとづく初の7年制高等学校〔尋常科4年、高等科(文・理)3年〕として、 ・東京府北豊島郡中新井村北新井(現・東京都練馬区豊玉上1−26−1)に武蔵高等学校を設立。
・校長に一木喜徳郎(イッキ キトクロウ)(写真)、教頭に山本良吉就任。一木校長、山本教頭は別編の墨跡、文献目録に略伝あり。一木校長は公の要職にあり、多忙であった。以後の学校の教育方針・運営は実質的に山本教頭によって方向付けられた。


1922
大正11.2

・2月19日入学試験の実施。
場所:神田一橋 東京商科大学 科目:解釈力、計算力、観察力。及第者: 200名、身体検査、合格者:27日発表 80名(募集は尋常科1年各40名2組)。
・願書受付は1月10日〜31日。応募者は1、102名であった。

1922
大正11.4

・4月17日武蔵高等学校開校、第一回入学式は関係者多数の列席のもとに行われた。一木校長から本校の成立・使命および建学の理想について式辞があり、根津理事長から所思の発表があった。 尋常科第一学年生79名入学。本校舎はまだ建設されておらず、木造集会所で行われた。


1922
大正11.4

生徒の通学
学校の北の武蔵野稲荷の裏に、それぞれ朝夕の登下校時に1回だけ止まる最初の江古田駅(武蔵野鉄道の 臨時停車場、同窓生によると、2間ばかりの木製プラットホーム)がつくられた。当時の文部省への報告記録によると、学校は普通運賃の他、毎日20円づつ鉄道会社に補助していた。今日の西武池袋線の江古田駅はここからさらに 東に数百メートル2回引越した位置にある。開校当時は蒸気機関車で、まもなく電化された。写真は当時の池袋駅。


1922
大正11.7

夏期山上学校
山本教頭は生徒の健康を考え自然環境の中での校外教育を重視し、夏期山上学校を始める。最初は奥日光の湯本温泉の板屋旅館で、戦場ヶ原の自然観察や奥白根山登山 (写真)など行った。場所を変えて昭和11年まで10回続いた。後に尋常科一年生を対象した。初期の夏期学校は希望参加であった。次第に学校の寮舎の建築希望が出てきた。


1923
大正12.9

・9月1日校舎建設中に関東大震災あり、校舎に微損傷を受ける。時計塔下の1階の柱が座屈した。鉄筋コンクリート造(学校建設としてはまだ珍しかった)で、建設中に関東大震災を経験した建物として都内でも珍しい。 設計:佐藤功一 建築:清水組、旧帝国ホテルなどにも使われていた輸入されたカーン・バー鉄筋が使われている。現・大学3号館。


1924
大正13.7

・前記の山上学校についで、夏期海浜学校を始める。はじめは千葉県の岩井で行われていた。生徒の水泳は府立四中OBの協力を得たが、 次第に武蔵の水泳部OBが育ち替わった。後の千葉県の鵜原における海浜学校の先がけであった。
・10月25日生徒外遊基金団成立。12月1日校友会成立。


1925
大正14.3

本校舎完成。4月運動場整備成る。校地内の細流を拡幅整備し濯川と命名。 校内には千川上水の分水(幅30cm程)が流れ南側には田圃があった。根津理事長の発案で教職員と生徒で拡幅し川にした。そして周囲に年々教職員や生徒が拠金して樹木を植えていった。詳しくは別編濯川を参照。
・3月30日一木校長宮内大臣に就任。
・8月外人教師住宅落成。11月尋常科寄宿舎1棟増築。

1926
大正15.3

・尋常科第1回終了式。
・4月校長に山川健次郎就任。式で演説する山川校長。一木前校長は宮内大臣に任命されたため辞任した。 東京帝国大学総長(二度)、九州帝国大学総長、明治専門学校(現・九州工業大学)総裁、京都帝国大学総長、枢密顧問官等を歴任し、功成り名を遂げた最晩年の山川校長が一高等学校の校長になったのは、根津理事長の懇請によるものであった。以前、根津理事長が事業旅行の途次に会津を訪れ白虎隊墓所に詣でたとき、その荒廃にいたく心痛し、発憤して多額の寄付をし、これが墓所の修復運動となり、墓所の修復が成った経緯があり、人一倍、郷土の会津思いの山川先生は根津理事長に恩義を感じていて、校長就任の願いを断ることはしのびなかったと後述されている。山川校長は生徒達に自分の若い頃の米国留学体験談を講演したり、 佩章訓辞で武人の心得を語り、日本最後の武士とも称され、謹厳実直でいて細やかな心遣で生徒や教職員から慕われた。 別編の墨跡文献目録の項も参照。
・12月民族文化講義開講(第1回中川忠順 日本美術史)以後恒例となる。


1927
昭和2.2

・本校舎おいて初めて入学試験を行う。
・5月高等科2寮(双桂、愛日)落成。6月剣道場落成。
・7月生徒外遊基金によって第一回外遊出発。9月化学教室棟落成。10月生徒集会場落成。

1928
昭和3.4

本校舎(1925) 講堂(写真) 屋内運動場(1928) 化学教室(1927)等諸施設完成全学年がそろい 4月15日開校式(写真)を行う。
武蔵讃歌制定(別編参照:武蔵歌集)。
・この年刊行された武蔵高等学校六年史の中に建学の精神三理想が発表されている。

1928
昭和3.7

鵜原寮落成(千葉県興津町字鵜原) 千葉県興津町鵜原に鵜原寮が建設された。父兄の熱心な発起によった。 写真は昭和8年のもの。寮への入り口にはトンネルがあった。
・11月明治講話を始める。以後恒例となる。・北極方位石3カ所及び屋上に盤を設置(別編参照:武蔵の石碑)。・12月弓道場落成。


1929
昭和4.2

・昭和4年2月13日第1回予餞会(卒業式)が講堂で行われた。一木前校長、根津理事長の祝辞があり、理事長はからはお祝いの 意をこめて、文科、理科それぞれの代表者に時計が贈られた。
・3月卒業記念樹(銀杏2本)を植える。以後恒例となる。
・12月父兄会設立。

1931
昭和6.3

・山川校長退任(6月26日逝去)。山本教頭校長事務取扱となる。
・9月ブール竣工(父兄会より寄贈)。
・10月15日講堂会議室で同窓会発足式。
・11月14日根津邸において同窓会第一回会合を催した(写真)。


1932
昭和7.4

・4月17日開校10周年記念式を講堂でおこなった。前校長一木宮内大臣、桜井学士院長、荒木学習院長等の列席あり、父兄会から 10年勤続職員に記念品が贈呈された。
・5月16日濯川の七橋に命名し、各教授揮毫の札を立てた。程なく島の亭を造った。別編参照:武蔵の石碑、 濯川


1935
昭和10.11

・校長に山本良吉(明治4年10月10日〜昭和17年7月12日)就任。 石川県出身。終生の友人であった西田幾多郎、鈴木大拙とともに北條時敬の門下。明治29年東京帝国大学文科大学哲学科(選科)卒。41年京都帝国大学学生監兼第三高等学校教授。 大正7年北條学習院長に招かれ学習院教授。9年欧「欧米における学生生活状況調査」(文部省委嘱)のため約一年間アメリカ、欧州を視察。
別編参照:墨跡、文献目録

1936
昭和11.3

・3月23日卒業式にあたり、理事長根津嘉一郎の立像除幕。講堂玄関に置く。
・6月15日根津理事長の喜寿の祝賀会がひらかれ、父兄会、同窓会から根津化学研究所が贈呈された。これまで 根津理事長に対する謝恩の話が何度もでたが、理事長はこれらをすべて固辞されていた。しかしこの研究所については受け入れられ、 これからの研究のためには莫大な資金が必要とされるとして二万円を寄付された。 研究所の建築費は約二万四千円であった。そして玉虫文一教授が根津化学研究所の所長に補された。
・この日のために準備されてきた濯川の島を喜寿島と名付けられた。


1937
昭和12.7

青山寮落成(長野県軽井沢町矢ヶ崎)。父兄から本郷弥生町にある自宅の寄付を受け、これを長野県軽井沢矢ヶ崎の根津理事長 所有地内の約3千坪(後に1万坪)に移築及び増築することが許された。これが完成し青山寮と名付けられ、以後昭和55年までここで山上学校が開かれた。

1940
昭和15.1

・1月4日理事長(初代)根津嘉一郎逝去。築地本願寺にて学校葬。根津理事長は昭和14年南米のブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンへ親善使節団の一員として訪問した帰途ニューヨークで感冒にかかり、これがもとで年末肺炎を併発し、翌15年1月4日忽然として逝去された。享年八十歳であった。
・一木喜徳郎理事長に就任。

1940
昭和15.4

・紀元二六〇〇年を記念し学校山林(埼玉県毛呂山町)を造る。はじめ父兄会の発起で記念植林のための資金が寄付された。 卒業生の所有の山林約一万坪を譲渡され、檜が植林された。年々生徒達が下草を刈り、手入れを行っている。
・11月25日財団法人根津美術館が創設された。

1941
昭和16.1

・校友会を報国団と改める。
・4月17日開校二十周年記念式を行う。武蔵高等学校20年史を刊行。
・6月27日民族文化部門千川上水を出版。
・8月8日〜17日まで高等科生約100名陸軍兵器廠にて作業。9月以降同様の動員頻繁となる。

1942
昭和17.8

・校長に山川黙(ヤマカワ シズカ 明治19年7月26日〜昭和42年2月11日)就任。 河田家の次男として東京に生れる。のち山川操(山川健次郎令姉)権掌待の山川家を継がれた。大正2年東京帝国大学理科大学植物学科卒業、 慶応義塾大学予科教授等を歴任。大正13年武蔵高校教授、生物学を担当。山上・海浜学校の場所の選定や施設の整備に貢献した。 山本校長の下で教頭になった。戦中戦後の困難な時代に学校の教育・運営に苦闘された。また登山家としても知られており、日本山岳会の創立メンバーの一人でもあった。

1943
昭和18.4

山川賞、山本賞を制定。山川健次郎元校長を記念して生徒の理科の研究論文と山本元校長を記念して生徒の文科系の研究に対する賞。

1944
昭和19.4

・17日 校旗を制定。
・5月1日生徒勤労動員壮行会を行う。動員は16年頃より頻繁になるが、主な学徒農村動員作業、学徒勤労動員の内容は次のものであった。昭和20年7月まで埼玉県大寄村(現・深谷市)の農家に数名ずつ分宿しながら援農作業を行う。1回90名前後、4回出動
この頃高等科3年生が日立製作所戸塚工場へ(19年5月から約5ヶ月間)、高等科2年生は19年7月11日から20年3月5日まで約8ヶ月間ほぼ休みなく日東金属志村工場に出動し、 数人が作業中に火傷などのケガを負う危険な作業(1銭アルミ貨幣を溶かして航空機用ジュラルミン板の圧延製作)であった。
また20年2〜6月にかけて尋常科生が陸軍気象部勤労作業に数度動員された。これらの動員には教師がそれぞれ付添った。これらの一部の記録は「武蔵学園史年報 2号」参照。
・8月4日校舎3階を防衛司令部に徴発される。

1945
昭和20.2

・校舎2階の一部を東京第二兵器廠へ貸与。
・2〜6月にかけて尋常2、3年科生が陸軍気象部勤労作業数度動員(4月17日軽井沢分室に動員)された。作業内容は気象データの整理であった。
4月13日空襲により校地東側の木造施設等約800坪焼失(慎独寮、剣道場、弓道場、木工金工室、不退堂)
・7月20日〜8月22日尋常科1年は勤労動員を兼ねて栃木県那須集団疎開。

1945
昭和20.12

・理事長に根津嘉一郎(二代 大正2年9月29日〜平成14年2月15日)就任。昭和16年12月18日長男であった藤太郎は父の嘉一郎を襲名して、二代根津嘉一郎となった。事業の方では東武鉄道の取締役社長に就任した。 昭和8年武蔵高校文科卒業。11年東京帝国大学経済学部卒業。23年経済団体連合会理事。34年根津美術館館長。父の遺業をついで55年以上にわたり学園の発展、充実に尽くした。

1946
昭和21.2

・校長に宮本和吉(明治16年6月10日〜昭和47年10月22日)就任。 山形県生まれ、カント哲学者。昭和2年京城帝国大学教授、12年文学博士。昭和23年武蔵大学開設の先頭になって尽力。 24年武蔵大学長、校長として新制の武蔵学園の基礎を築いた。昭和23年根津育英会の顧問(評議員)となった安倍能成、和辻哲郎、 天野貞祐などの文化人グループの一人で、この人達から23年同じ旧制高校であった武蔵、成蹊、成城、加えて学習院の4校で 東京連合大学を共立する構想が出たが実現はみなかった。31年武蔵の退任後は成城大学長、学園長を歴任した。
・6月食糧難事情のため夏期休暇を延長の対処をおこなう。(7月1日〜9月15日)

1947
昭和22.2

・尋常科生徒募集を中止

1948
昭和23.4

新制武蔵高等学校開設、旧制尋常科より3、4年修了者が新制に移行。
・8月20日文部省へ大学の設立認可申請を提出

1949
昭和24.4

・昭和24年2月21日大学の設立認可がおりる。
・4月武蔵大学開設 経済学部経済学科(定員120名)を設置。
新制武蔵中学校開設、1、2、3学年同時入学。 ・新制度の学長・校長に宮本和吉。 ・大学経済学部長に鈴木武雄就任。
・3月28日筆記試験、31日面接をへて、 ・4月23日70名の第一回入学式が行われた。
・写真ポスターは25年度のもの。大学は3号館東翼3階を使用していた。


1950
昭和25.3

・22期生の卒業式をもって旧制高校時代終了。
・4月大学に医歯学部進学課程設置(1960年度入学生まで)。学制改革で発足した大学の医・歯学部系学部では、一時期、他大学の教養課程の修了者に専門課程のへの入学資格を与えていた。やがて各大学ので教養課程が設置できるようになり、このプレメ・コースは廃止された。
・4月1日大学事務局発足。
・11月この年から四大学運動競技大会始まる。本学の提案で成城、成蹊、学習院、武蔵で毎年各校持ち回りで、運動競技大会を今日まで開催している。

1951
昭和26.1

・理事長に宮島清次郎就任。日清紡績社長。実業家、日本工業倶楽部理事長として財界で活躍して戦後の日本の復興や後輩財界人を育成して日本の経済発展に結びつけた。初代根津嘉一郎の終生の友人で正田貞一郎(日清製粉社長)とともに武蔵高校創立時から初代根津嘉一郎に協力し、理事、評議員として尽力。初代亡きあと後事を託され、まだ若い事業家であった二代根津嘉一郎を育成、指導するとともに、終戦後の経済インフレの中、武蔵学園や根津美術館の経営・運営を守り、その後の学園の発展の基盤を固めた。死後遺産が学園に寄付され、宮島基金と呼ばれた。別編参照:墨跡、文献目録

1951
昭和26.2

・新たな法律にもとづき、財団法人根津育英会は学校法人根津育英会となる。

1951
昭和26.9

・図書館落成(書庫、仮閲覧室)。鉄筋コンクリート製の書庫と木造平屋建ての閲覧室。後ろの建物はわずかに戦災に焼け残った慎独寮。


1952
昭和27.4

・4月17日創立三十周年記念式。和田八重造元講師の記念講演。式後、 天野貞祐文部大臣の講演。
・8月大学就職対策、旧制武蔵高校卒業生と懇談会。協力を得るため。

1953
昭和28.3

・22日大学第1回卒業式を行う。卒業生68名。 ・6月大学校舎(大学2号館)落成。大学の最初の独立した建物となり、3号館から引っ越し、9月から授業で使用し始めた。
・11月「武蔵大学論集」を創刊。

1954
昭和29.2

大学讃歌選定。別編参照:武蔵歌集
・6月大学祭を始める。
・10月四大学合同文化祭(成城、成蹊、学習院、武蔵)、昭和40年代半ばに大学紛争の影響で中止になった。

1955
昭和30.10

大学同窓会発足。
昭和30年のキャンパス全景。34年に大学1号館が新築されるまで大学2号館以外の建物は大学・高中の共用であった。その後も 研究棟が建てられるまで旧校舎の共用が続いた。2号館のとなりはプール。


1956
昭和31.4

・学長・校長に吉野信次(明治21年9月17日〜昭和46年9月17日)就任。長兄は政治学者の吉野作造。 大正2年東京帝国大学独法科卒業。農商務省に入省。昭和6年商工次官。12年近衛内閣の商工大臣。13年貴族院議員。28年参議院議員。 30年運輸大臣。公職にあって多忙であったが、高校中学と大学間の経営及び運営上の諸問題の解決に意を尽くした。
・大学同窓会の会員数(昭和31年5月現在 363名)

1957
昭和32.4

・昭和30年代中頃の受験生(写真)。
・大学に教職課程を設置


1959
昭和34.4

・大学経済学部に経営学科(定員200名、経営管理コース、工業経営コース)を設置。
大学1号館落成。鉄筋コンクリート4階建延870坪、総費用6、985万円。
・5月29日〜30日大学と学生の合同による盛大な開学10周年記念祭が開催され、盛況であった。江古田の街へ仮装行列のパレードをくり出した。
・11月22日八方尾根の武蔵山荘落成。


1963
昭和38.3

図書館、研究棟、学生ホール等落成

1963
昭和38.9

・理事長に山本為三郎(明治26年4月24日〜昭和41年2月4日)就任。 大阪市出身。初代根津嘉一郎と麦酒事業で協力して会社を設立。昭和23年日本工業倶楽部理事。24年朝日麦酒会社を設立し初代社長 に就任。実業家として多数の会社の役員を歴任するかたわら外国音楽家の招聘や民芸運動への共感など文化活動を後援する。 宮島清次郎理事長の後を継いで武蔵学園の発展に尽くした。

1963
昭和38.11

白雉祭・学園創立40周年
昭和27年から始まった大学祭(当初は高校中学と合同で29年から独立した)は 学園創立40周年記念にあたり、11回から白雉祭と呼ぶばれるようになった。
・当時のキャンバス全景。


1965
昭和40.4

・学長・校長に正田建次郎(明治35年2月25日〜52年3月20日)就任。数学者。 初代根津嘉一郎の育英事業に協力し武蔵高校創立に尽力した正田貞一郎の次男。大正11年東京帝国大学理学部数学科卒業。 昭和8年大阪大学数学科教授。29年大阪大学総長。44年文化勲章受章。在任の12年にわたり学園の五十周年記念事業の推進、 高校中学の新校舎の建設、大学人文学部の創設、大学院の設置、学生会館の建設、さらに学長公選制を実現させるためのはたらきかけなど、 学園の発展に多大の貢献をされた。昭和43年頃からの大学紛争の中で学生の大衆団交に何度も対応され、 心労の重なる時期でもあったが、学生、教職員から信頼され慕われた。学生より贈られたレリーフが濯川の八角発井戸のそばに建てられている。
・高校1学級増やし4学級とする (以後毎年、高校1年に新入生約40名)

1966
昭和41.2

・理事長に小林中(明治32年2月17日〜昭和56年10月28日)就任。 山梨県出身。初代根津嘉一郎のさそいで昭和4年富国徴兵保険相互会社に入社、18年同社取締役社長、21年東急電鉄社長、23年日本工業倶楽部理事、経済同友会幹事、日経連理事、26年日本開発銀行初代総裁、43年アラビア石油社長、48年日本航空会長など財界で活躍した。武蔵学園五十周年記念事業のときの理事長として学園の発展に尽力した。

1967
昭和42

50周年記念事業1970年までの学園再編成事業始まる。 正田学長・校長を迎えて、7年後の50周年を念頭におきながら大学の質、量を改善していこうという事業。具体的には人文学部の増設、 大学院の新設、施設関係では大学体育館新築、学生会館新築、朝霞に学寮新設、高中関係では新校舎建設、体育館、プール新築等今までにない大規模なものであった。

1968
昭和43.11

朝霞総合グラウンド完成。昭和8年頃から根津理事長が埼玉県朝霞に約4.6万坪の土地を取得し、大寺院と僧侶学校、 墓園公園の建設を計画した。手始めに10年1月に鳴る鐘として日本一の鐘を完成させた。ついで奈良の大仏につぐ大仏を造りたいと12年原寸大の 原型まで作製したが、次第に戦時色濃くなり鋳造のための銅の使用が許されないうち、理事長は逝去された。遺言により、この土地は学校に寄付されたが、15年10月陸軍予科士官学校用地として国に強制買収され、出来上がっていた鐘は後に供出された。戦後土地の主要部は米軍駐留地や自衛隊基地となった。昭和39年、旧地主への返還と いうことで、この土地の周辺部の山野約2万坪を学園が買い取り、整地して武蔵大学グランドとした。別編参照:朝霞大仏物語/b>

1969
昭和44.4

・大学に人文学部を開設し、欧米文化学科(定員100名) 日本文化学科(50名) 社会学科(100名)を設置。
・人文学部長に高津春繁就任。
大学院経済学研究科修士課程を設置。
・大学3号館改修完了
・大学・高校中学各独立のキャンパスに再配置完了、
・高校中学新校舎落成(写真)、
・9月高校中学生徒集会所落成

1969
昭和44.11

大学紛争の激化、学生による1号館、本部棟の封鎖。昭和40年代半ばは第二次反安保闘争に国公立や私立大学の授業料値上げ反対、学園民主化、自主管理などを 求めて、これがさらに左翼系の学生の影響による暴力的な学園紛争に発展していた。本学もこの影響を受けて、学生による当局に対する大衆団交や 建物、大学内から教職員をしめだすなどの大学封鎖が頻発した。

1970
昭和45.1

大学体育館落成、学生会館落成

1970
昭和45.2

・高校中学体育館落成 プール竣工。これらに加えて集会所が父兄会、同窓会の寄付によって建設された。 新体育館、プールの場所はかって旧制時代の学寮(双桂、愛日寮)や旧体育館、剣道場があったところ。


1972
昭和47.4

大学院経済学研究科博士課程を設置

1973
昭和48.4

大学院人文科学研究科修士課程を設置

1975
昭和50.4

学園長制度発足(大学に公選学長を 高校中学に校長を置く)学園長に正田建次郎就任

1975
昭和50.12

武蔵学園後援会発足

1978
昭和53.4

・学園長に太田博太郎(大正元年11月5日〜平成19年11月9日)就任。 武蔵高校卒業後、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。東大教授、九州芸術工科大学学長等歴任。日本学士院会員。日本建築史の大家として知られる。 学園の創立五十周年記念事業後の校地の施設・整備や青山、鵜原2寮の老朽対策など。太田学園長は専門スタッフをまとめ、長期計画を新たに策定し実行された。

1979-82
昭和54-57

大学キャンパス再開発(図書館棟(写真) 中講堂棟 教授研究棟(写真)など新築)法人本部棟整備(旧図書館棟を改修) 高校中学校舎等1部増改築


1980
昭和55.4

・4月大学に学芸員課程設置。
・9月中講堂棟落成。
・12月軽井沢の青山寮を廃し赤城山大沼湖畔
赤城青山寮新築落成


1981
昭和56.11

・理事長に根津嘉一郎(二代)就任

1983-86
昭和58-61

・創立60周年記念濯川蘇生計画事業実施

1988
昭和63.3

・科学情報センター棟落成、1階コンピュータ室、情報処理実習教室、2階AVホール、 3階大学自然科学教室、化学、物理、生物学研究室、実験教室


1988
昭和63.6

鵜原寮改築落成、柱、梁などの主要材は学校山林の60年の間伐檜を使用した。


1989
平成元.4

武蔵大学総合研究所を設置

1990
平成2.4

・学園長に植村泰忠(大正10年4月18日〜平成16年11月28日)就任。 物理学者、半導体の研究者。武蔵高校卒業、東京大学物理学科卒業、東芝マツダ研究所勤務、東京大学理学部教授、東京理科大学教授等歴任。

1992
平成4.3

・学校山林で70周年記念植樹

1992
平成4.4

・大学経済学部に金融学科設置

1992
平成4.12

大学5号館落成

1993-94
平成5-6

70周年記念事業 『武蔵七十年史』 『武蔵70年のあゆみ』の刊行

1994
平成6.6

武蔵学園記念室開設

1997
平成9.12

・武蔵倶楽部棟竣工

1998
平成10.4

・学園長に田中郁三(大正15年1月13日〜)就任。武蔵高校卒業、 昭和22年東京帝国大学理学部化学科卒業、昭和33年東京工業大学教授、昭和60年東京工業大学学長。分子光化学の先駆的な手法開発などで知られる。光化学のパイオニア。平成17年文化功労者。
・大学に社会学部社会学科、人文学部比較文化学科設置。

1998
平成10.4

大学6、7号館
高校中学新棟竣工(写真)


1999
平成11.6

大学開学50周年記念式典を挙行
武蔵大学のロゴ(写真)


2000
平成12.5

・理事長に田中郁三就任

2000
平成12.9

・大学2号館、本部棟(旧図書館)を取り壊し、大学8号館の建設着手、平成14年夏完成予定

2002
平成14

・2月前理事長(二代)根津嘉一郎逝去
・7月大学8号館落成

2002
平成14.10

武蔵学園創立80周年記念式典(大講堂)を挙行。80周年記念ビデオ「武蔵 その原点」を作成

2003
平成15.2

・大学朝霞プラザ(学生寮)落成。朝霞グラウンドの北側に位置し、60名収容、個室、その他ゼミ合宿等が可能。
9月『武蔵80年のあゆみ』の刊行


2004
平成16.2

高校中学校図書館棟落成
・4月社会学部にメディア社会学科設置。
・11月「広がる伊能忠敬の世界in武蔵」展を開催。


2005
平成17.4

・人文学部英米比較文化学科 ヨーロッパ比較文化学科 日本・東アジア比較文化学科 に改組

2006
平成18.4

・理事長に根津公一(ネヅ コウイチ 昭和25年〜 )就任。二代根津嘉一郎の長男で初代の孫にあたる。昭和44年武蔵高校卒業。48年 慶応大学商学部卒業。平成3年東武百貨店社長。2年根津美術館理事長。16年日本百貨店協会副会長。

・学園長に有馬朗人(アリマ アキト 昭和5年〜 )就任。兼副理事長。物理学者、俳人。昭和25年武蔵高校卒業。 28年東京大学理学部物理学科卒業、同大学院に進む。米国大学教授をへて、50年東京大学教授。平成元年東京大学総長。10年参議院議員・文部大臣・科学技術庁長官。 22年文化勲章受章。
・大学院経済学研究科経済・経営・ファイナンス専攻博士前期課程に改組し設置

2007
平成19.9

・高校中学グランド人工芝工事落成、
大学10号館落成

2008
平成20.4

・大学院経済学研究科経済・経営・ファイナンス専攻博士後期課程を設置

2008
平成20.9

・大学収容定員関係学則変更申請が認可され、入学定員930名となる。







          学  園  役  職  者  就  任  年  表

 年  月

  法   人

旧制高校学園

  大   学

 新制高校中学

 (大 正)
1921(10) 9
    12





 

  
 根津嘉一郎(初代)
 
創立関係役員
根津啓吉
宮島清次郎
本間則忠
正田貞一郎
平田東助 一木喜徳郎
岡田良平
山川健次郎
北條時敬
佐々木吉三郎


旧制高校長
一木喜徳郎

山本良吉
(初代教頭)


 









 









 

1926(15) 4

     

山川健次郎

 

 

(昭 和)
1931(6) 3


    
 


山本良吉
(事務取扱)



 



 

1935(10)11

    

山本良吉

 

 


1940(15) 1

  理事長
 一木喜徳郎


 


 


 

1942(17) 8

    

山川 

 

 

1945(20)12

 根津嘉一郎(二代)

 

 

 

1946(21) 2

    

宮本和吉

 

 

1949(24) 2
 


    

学長・校長
宮本和吉

鈴木武雄 (初代経済学部長)


 

1951(26) 1

 宮島清次郎

 

 

 

1956(31) 4

 

吉野信次

 

 

1963(38) 9

 山本為三郎


 

 

1965(40) 4

 

正田建次郎

 

 

1966(41) 2 

 小林 中

 


 


1969(44) 4

        
 


 

高津春繁(初代人文学部長)


 


1975(50) 4


 

学園長
正田建次郎

   
  鈴木武雄 

 
大坪秀二

1976(51) 2

    

 

  岡 茂男

 

1977(52) 3
 


 

岡 茂男
(事務取扱)


 


 

1978(53) 4

 

太田博太郎


 

1981(56)11

 根津嘉一郎(二代)

 

 


1984(59) 2

    

 

  淺羽二郎

 

1987(62) 4

    

 


小林奎二

1988(63) 4

    

 

  小原廣忠

 

(平 成)
1990(2) 4


 


植村泰忠




 

1991(3) 4

 

 

 

矢崎三夫

1992(4) 4

 

 

  櫻井 毅

 

1997(9) 4

 

 


福田泰二

1998(10) 4

 

田中郁三

 

 

2000(12) 4

 

 

  横倉 尚

 

2000(12) 5

 田中郁三

 

 

 

2005(17) 4


 


山崎元男

2006(18) 4

 根津公一

有馬朗人

  平林和幸

 

2010(22) 4

 

 

  清水 敦

 

2010(22) 5
 


 


 


 

梶取弘昌(代行)
 



学園創立80周年記念式典、祝賀会(平成14年10月6日)

大講堂において、80周年記念式典が挙行され、学習院、成蹊、成城、甲南などの5学園の関係者、官庁、近隣の来賓をはじめ、関係企業、団体、旧制高等学校友誼校、学園後援会、大学父母の会、高中保護者会等の役員、同窓会役員、学園役員、旧教職員、同窓生など五百名近くの参列者があった。式の中で学園の創立秘話から今日までを大観する「武藏−その原点−」(ビデオテープ32分)が上映され、厳粛の内にも、しばし武藏学園の80年を回顧し、あらたに学園の将来に思いをひとつにする意義深いものがあった。式典終了後は大学体育館において、祝賀会が催され盛会の内に終了した。




武蔵高等学校の創設と根津翁

実業家であった根津嘉一郎(初代)は大正4年頃から文部省の事務官であった本間則忠から育英事業の勧奨をうけ、 友人の正田貞一郎(日清製粉)、宮島清次郎(日清紡績)の賛同、協力を得て、国家のため有為な人材を育成せんと育英事業を発企した。 当時日本の教育制度の改革を目指していた臨時教育会議の総裁であった平田東助(子爵)の力添えで、一木喜徳郎岡田良平北條時敬山川健次郎佐々木吉三郎といった教育界の 錚々たる人物の参加及び協力を得て高等学校設立が決定した。翁は大正10年360万円を寄付して財団法人根津育英会を 立ち上げ、翌年の11年に我国初の私立の七年制武蔵高等学校(尋常科4年、高等科3年)が東京府北豊島郡中新井村大字中新井字北新井(現・練馬区豊玉上1丁目 26−1番地)に開校された。
戦後は学制改革に伴い、旧制武蔵高等学校を母体として、新制の武蔵高等学校(昭和23年)、武蔵中学校(昭和24年)に改編し、 さらに武蔵大学(昭和24年)を新設した。大学は当初経済学部経済学科の単学部単学科で開学し、その後 学科、学部、大学院の増設により、現在は経済学部、人文学部、社会学部の3学部構成となっている。



初代・根津嘉一郎(万延元年(1860)6月15日〜昭和15(1940)年1月4日)

父子二代にわたる育英事業

大講堂の正面玄関を入ると、武蔵高等学校を創設した初代・根津嘉一郎翁の立像がある。翁の雅号は青山、 甲州財閥を代表する1人。実業家、政治家、東洋古美術収集家であり、甲斐国(現在の山梨市)の富農の二男として生まれる。若くして 利殖の才を発揮する。明治30年38歳の時、東京に分家して甲州財閥と呼ばれていた実業家たちと共に公共的な電灯会社や鉄道事業の経営に関心を もち役員に就任。明治38年に赤字会社であった東武鉄道の社長に請われて就任し、会社の将来は社線の延長にあるとみて、 技術的に資金的にも困難の大きかった利根川に大鉄橋を架け栃木、日光、伊勢崎方面に路線を延伸し心血を注いで会社の業績を回復させ一大私鉄会社に発展させた。 以後この会社を中核企業とする。全国24社の私営鉄道の経営に関わり、自他共に第一人者をもって任じ、 鉄道王とも称された。
根津翁の思想・処世訓は明治42年50歳の時渋沢栄一を団長とする米国実業視察団の一員に加わり、全米53都市を訪問した。 そこで米国の財産家は公共的事業、慈善的事業に投資を惜しまないことに感動する。そこから、「多額の金を儲けて、その多くを世のために散ずる主義」、「子孫のために財を築くより、 社会のために財を用いたい」とする社会奉仕の信念をモットーとした卓越した事業家であった。 当時の日本において実業家・資産家が社会のためにその資産を提供するというのは希なことであったのである。 昭和14年南米のブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンへ親善使節団の一員として訪問した帰途感冒にかかり、 これがもとで年末肺炎を併発し、翌15年1月4日忽然として逝去された。享年八十歳であった。
生涯に25業種以上におよぶ200社以上に係わり、明治・大正・昭和を通じて、三井、三菱、安田財閥などの 金融資本閥とは一線を画し、産業資本家として独自の道を歩んだ財界の雄であった。また翁は後輩事業家達をきびしく 育成してきたことでも知られ、後にこれらの育成された事業家の中から日本財界の中心となって、戦後の経済復興、その後の日本経済の発展に貢献した人材が輩出した。

根津翁の主な育英・文化事業の特色や経過を記すと、 1)根津翁の育英事業は武蔵高等学校の経営を自らの事業として考えたものではなかった。翁は本業である実業活動に専念し忙殺されていた。 学校の教育、運営は優秀な教育者にまかせ、学校経営が軌道に乗るまでいかなる援助も惜しまないという態度で、実際、少数精鋭主義の 学校教育は経営上の負担も大きく、学校設立後も年々相当な資金を提供し続けてきたのであった。幸い学校の教育、運営は徐々に軌道に乗り 年々優秀な卒業生を送り出すことができ、学校の評価も定まりつつあった。 2)自ら唯一の趣味と語り、若い頃より独学で愛好蒐集してきた東洋古美術コレクションは、翁の博物館を設立したいとの生前からの遺志に基き、 港区青山の邸宅敷地内に自ら茶人として職方とともに汗を流して作った自然庭園や数棟の茶室とともに昭和15年11月に 根津美術館として設立され、今日に受継がれてきた。我が国有数の私立美術館の一つとなっている。
3)根津翁は晩年に埼玉県北足立郡朝霞町に約46、000万坪の土地を取得し、ここに人々の思想善導のため、宗派にとらわれない 大寺院と僧侶学校、そして墓園公園を建設するという終生をかけた壮大な計画をもっていた。奈良の大仏殿より大きな建物と 釈迦牟尼仏の制作を計画し、昭和10年1月に鳴る鐘としては日本一の大梵鐘を完成させた。次いで大仏の製作を手がけたが、時代は日中の戦時色濃くなり、銅の使用が許されず大仏を作鋳することはできないでいるうちに根津翁は急逝されてしまった。土地は遺言で根津育英会に寄付されたが、すぐに陸軍士官学校用地として国に強制買収されてしまった。そして後に完成していた大梵鐘も供出されてしまった。
別編参照:朝霞大仏物語
参考文献:資料・根津嘉一郎の育英事業 七年制武蔵高等学校の開設 2005 179,12,40p.
 武蔵学園史年報 v.1;1995


父の遺業を継いだ二代根津嘉一郎(大正9月29日〜平成14年2月15日)

昭和16年12月18日長男であった藤太郎は28歳で父の嘉一郎を襲名して、二代根津嘉一郎となった。 父のあと法人の評議員、理事に、事業の方では東武鉄道の取締役社長に就任した。時代は太平洋戦争に逢着し、 ついで敗戦、戦後の経済恐慌といった社会的大変動にみまわれ、初代根津翁から後事を託されてきた 正田、宮島両理事の支援もあったが、二代根津嘉一郎理事にとっては父の遺した学校を護るため苦難と忍耐の時代であった。 学校の資産として初代が残してくれた池袋駅前の二万三千坪の広大な土地(雑司ヶ谷土地、地元では根津山といわれていた) も戦後のインフレから学校を守るため処分せざるをえなくなった。 昭和23年に新学制の発足により、財団法人から学校法人に移行し、新制武蔵高校、翌年新制武蔵中学校へと改編された。 この時期に同窓生、父兄、教職員の間から旧制高校の伝統を引継いだ文理の大学新設の希望が出てきた。 全国二千校の内の一校になってしまうという、一流の教授陣を擁していた故の危惧であった。 これに対して、実質的に法人を代表していた宮島理事は学校経営上から大学新設に反対した。敗戦後のインフレから学校を護るため苦闘してきた宮島理事の立場からみると 無理からぬことであった。結局、法人は施設関係に責任を持つが、以後、学校の運営は学校側にまかせることになった。この変則状態は数年間続くことに なったが、大学の教育、運営が少づつ軌道にのる頃には元にもどり、昭和28年に初めての独立した大学施設として2号館を建設することができたのである。
結果として、昭和23年8月急遽、宮本学長を中心とした人達の努力によって、当初の文理学部からから経済学部へと変更されて、文部省に大学設置認可申請が出され、 補遺、修正申請を追加して、翌年の昭和24年2月に武蔵大学経済学部経済学科が認可された。以後、昭和34年の1号館建設、図書館、研究棟と続き、正田学長のもとでの昭和43年の人文学部の増設、大学院の設置と 学園創立50周年事業(学園諸施設の拡大の整備)を成し遂げ、その後の学園を質、量の面で充実・発展させてきたのは二代根津嘉一郎翁の55年以上にわたる、 初代に勝るとも劣らない弛まぬ努力のたまものであった。




校 名 は 武 蔵 

 大正10年に「東京高等学校」という名で設立申請したところ、官立で設立する計画があり、東京を譲ってほしいということで、東京より大きい武蔵(国)に決めたのです。創立関係史料によると、武蔵は古来強き人が出たところで、雄々しき感じが起こる。古事記に武蔵は「无邪志」(無邪志、むざし、邪心なし)と記されており、国家有用の人材を育成するにふさわしい。また続日本記(稱徳紀)に「神護景雲二年六月癸巳(七六八年)武蔵(むざし)国、白雉(しろききじ)を献る (たてまつる)、・・略・・則ち群卿に(まへつぎみたち)下して議ら(はから)しむ。奏して云はく、「雉(きざし)は斯れ良臣の一心忠貞の応なり。白色は(しろきいろは)乃ち聖朝の重光照臨の (ちょうくわうせうりむ)符なり。国を武蔵と号く(なづ)るは、既に武(ぶ)をおさめ文を崇ぶ(たっとぶ) の祥を呈す(あらは)。」とあり、「武蔵を解釈してしゅう武崇文(しゅうぶすうぶん)としたのは、時は正に世界大戦の後を亨け、今や平和会議の央に属すしゅう武崇文を以て此の学校の名と為す」と記されている。そして、白雉が徽章にデザイン化され、この後学園のシンボルとなりました。

白雉と創立時の徽章

学園記念室に保管されている白雉の剥製。創立時の武蔵高校の徽章。雉武高と呼ばれた。東京美術学校生徒一木いく二郎(イッキ イクジロウ 一木校長次男)図案を創作し、東京帝国大学教授で建築家の伊東忠太これを鑑査し、彫刻家新海竹太郎がこの原型を作った。





建学の精神「三理想」




三理想はいつ頃、誰が作ったかは明確ではない。断片的な記録はあるが、まとめるにいたった経過の記録はない。一木喜徳郎校長、山本良吉教頭が相談してまとめられたものと考えられる。昭和3年刊の武蔵高等学校六年史 に初めて登場し、翌年に今日の表現になった。意味をわかりやすくするため、( )内は最初の表現を記す。

1 東西文化融合のわが民族使命を遂行し得べき人物(を造ること)

2 世界に雄飛するにたえ(へ)る人物(を造ること)

3 自ら調べ自ら考え(へ)る力ある人物(力を養うこと)

作られて70年以上たつので、その後の世界的な通信手段や交通の飛躍的発達により、現在ではそのイメージや用語もわかりにくくなっているが、この三理想の根本的な精神は変わっていない。例えば、1、2の世界的、国際的視野と活動をみても、今日の中東地域における戦争をみるとき、その根底にある文明や文化の理解の問題が依然として課題であることは明らかである。また3については個々人によって解釈されて、定説はみないが、かつて大学開学時に宮本和吉学長はこれを批判的精神と説明されている。卒業生からは今でも自調自考と称され親しまれている。


キャンバスの環境

 大欅と練馬の名木

 大正11年に武蔵高校が開設されたこの江古田の校地内には、かつて数件の農家が点在し、 小川(濯川の前身)に沿って、現在の高校中学のグランドの一部には田圃や畑が広がる典型的な農村地帯でした。
今でも校内には武蔵野の雑木林や農家の屋敷森の名残の幹周り3m以上の欅の大木やナラや木楢、 樫といったドングリの木々がかなり残されています。
わけても3号館中庭の幹周り4mに達する 大欅は特に旧制高校生徒に親しまれてきました。ことある時には”大欅の元に集まれ”が合い言葉になっていました。 学園開設以来80余年にわたって生徒や学生を見守り、学園から社会へ巣立っていくのを見送ってきた樹なのです。
その故に卒業生にとつては、ホームカミングのシンボルツリーとなっています。 大切に保護されていて、夏には緑陰の涼やかさをもたらしてくれます。 濯川の欅橋の名もこの欅に由来しています。
練馬の名木に指定されたものは、 この大欅、しだれ桜、中の島のイロハモミジの3本があります。
別編参照:武蔵花暦

濯川の川名

 濯川の歴史は古く、今から約300年前に江戸市中の水道として、今日の武蔵野市の境橋付近で玉川上水から取水し、 豊島区の巣鴨まで武蔵丘陵の背を開削された千川上水に由来します。この千川上水は幾多の変遷をへて灌漑用水となり、 練馬のこの付近にあった三本の中新井分水の一つがこの濯川です。 学校創立初期の記録によると小川が流れ現在のグランドの一部には田圃が開かれていました。 この細流を拡げ、周囲に生徒と教職員で年々植樹を重ねてきたのです。 学校付近の千川本流は昭和27〜28年にかけて暗渠化(グリーンベルトの地下)され、しばらくして本流からの水流も断たれてしまい、 雨が降ると川に戻るドブ川になってしまいました。多くの人たちの支援によって、 昭和61年に今日の濯川の蘇生計画(循環式)が完成しました。都心に近く学校内に川が流れて、 周辺の樹木とマッチした自然景観は貴重なもので、教育環境にふさわしく、これらは学園の宝でもあり、 保護に心ががけていきたいものです。
 濯川の名の由来は、昭和3年に山本良吉教頭が名付けたもので、 屈原の(楚辞 巻7)「漁父」に因む。 滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足(そうろうのみずすまば、もってわがえいをあらうべし、そうろうのみずにごれば、もってわがあしをあらうべし)。追放された屈原が沼沢地で漁父(仙人)にあい、処世につき問答します。屈原は潔白な生き方を貫こうとするのに対し、漁父は世の清濁に応じて生きよと云い去っていきます。(滄浪は揚子江の支流漢水の下流の名。纓(えい)は冠のひものこと)。武蔵の学生・生徒達が巣立ってやがて世に出たとき、どう生きていくべきかを考えさせる含蓄のある川名と云えましょう。
 また、山本教頭は幾多の世界的偉人を生んだ英国ケンブリッジ大学の校内を流れるケム川(river of cam)にたとえ、武蔵のケム川として、優れた人材を世に送り出したいとの願いを記しています。
 昭和61年に濯川蘇生計画(学園創立60周年記念事業)の完成を記念して、八角井戸(平城京跡から出土した木製八角井戸) の原寸にかたどった木製水槽枠の内側に「濯川の由来」を墨書し、水源部に沈められた。 千年の後までも残したいとの思いが込められています。 平成3年にこの濯川周辺は「練馬静けさ十選」の一つにえらばれました。
別編参照:濯川 -歴史と景観-



武蔵高等学校 第一回入学式(大正11年4月17日)

入学式は、後に学生寮(慎独寮)の会合室となった木造の仮雨天体操場で、関係者多数の出席のもとにおこなわれた。一木喜徳郎校長から学校の成立、使命および理想について式辞があり、根津理事長からも挨拶があった。制服の仕立てが間にあわぬせいもあって半数近くが和服に袴をつけての出席であった。






武蔵高等学校校舎(大正12年)と大講堂(昭和3年)の内部

大正12年9月1日の関東大震災を建築中に経験した鉄筋コンクリート造りとしては、都内でも珍しい建物。 この地震で中央の時計台の下2箇所に亀裂がはいった。設計は早稲田大学建築学科の佐藤功一教授。建物は改修され、 今日でも大学3号館として使われている。右は昭和3年に創立者根津嘉一郎翁より寄付された講堂の内部。同じく佐藤氏 の設計によるもので照明のシャンデリアが大正ロマンを感じさせてくれる。同氏が設計したおもなものは早稲田大学の 大隈講堂(昭和2)や日比谷公会堂(昭和4)などがある。








武蔵の校歌

代表的なものは武蔵讃歌(昭和2年)があります。

武蔵讃歌の試聴(internet explore版)



グランド方向(北西)から見た高校中学校舎とこの南隣の、平成16年2月完成した高中図書館棟。 図書館棟 敷地面積70,943平方メートル 建築面積974.58 延べ面積2496.10 大教室、生徒集会室、分割教室、国語研究室、図書館、集密書架室



学園の主要な施設
江古田キャンバス・・・・武蔵大学、武藏高等学校中学校(〒176-8533
 東京都練馬区豊玉上1−26−1)
朝霞プラザ(学寮)・武蔵大学グラウンド・・・・(〒351-0015 埼玉県朝霞市幸町3−15)
赤城青山寮・・・・〒371-0101  群馬県勢多郡富士見村大字赤城山1−2
武藏鵜原寮・・・・〒299-5243  
千葉県勝浦市鵜原187
武藏学校林・・・・〒350-0454  埼玉県入間郡毛呂山町権現堂






武蔵大学のロゴマーク。平成10年、大学創立50周年にあたり作成された。

武蔵大学の開設

戦後の学制改革にともない。武蔵高校は新制の高校、中学校として再出発が決まったが、教職員、 同窓生の一部や父兄会から武蔵高校の伝統を生かして、大学を設置したいとの希望が出された。 はじめは伝統の文科、理科の学部を考えたが、当時の財団法人根津育英会は学校経営上の点から大学設置に難色をしめした。 当時は、戦後の極度のインフレにより根津翁が残された法人の基本財産の一部を処分するなど財政は逼迫していたからです。 そして、これは当時の日本のほとんどの私学が直面した問題でもあったのです。結果として、昭和24年4月経済学部経済学科 の単科大学として武蔵大学は開設されました。その後34年に経営学科、44年には人文学部が、平成10年には社会学部が 設置されました。

学習院、成蹊、成城、武蔵の四大学と甲南大学との親しい関係、そして、まぼろしの「東京連合大学」


学習院、成蹊、成城、甲南と武蔵学園の親しい関係は各校によって開設年度などは異なるが、 私学の7年制高等学校(旧制高校(学習院を除く))時代からのつきあいが元になっている。戦後の昭和23年頃に武蔵、学習院、成蹊、成城の新制大学開設にあたり、4校のそれそれの特色と教授陣を生かし東京連合大学を設立しょうという動きがあたが、残念ながら足並みがそろわず実現しなかった。当時の天野貞祐、安倍能成(学習院)、宮本和吉(武蔵)、高橋穣(成城)といった各学園の指導者であり、当時の知識人(哲学者)たちの構想であり、今日話題の「連合大学」の55年以上前の先駆けであった。この構想は実現しなかったが、それぞれ独立した大学で出発してもこの親しかった関係を生かして四大学で協力していきたいとするものであり、その一つが四大学運動競技大会の始まりもになったのである。この5学園は以前あった私立大学懇話会に加入していた(現在は私立大学連盟に加入)。
東京連合大学についての詳細については、学園記念室発行の武蔵学園史年報 2号(1996)に「東京連合大学共立趣意書」が収録されている。

昭和24年の武蔵大学開学時に大学の特色をどう生み出し教育につなげていくかの課題が あり、当時のマスプロ大学に比較して武蔵は小規模な大学であったので、これを逆手にとって、 少人数主義の教育を発展充実させてきたもので、ゼミナール教育の重視などに結びつけた もので、この精神は今日でも生きている。




学  部 ・ 学  科 ・ 大 学 院   2010

学  部

学  科 大学院 (2010)
経済学部 経済学科 経済学研究科
経済学部 経営学科  博士前期課程 経済経済・経営・ファイナンス専攻
経済学部 金融学科  博士後期課程 経済経済・経営・ファイナンス専攻

学  部

学  科 大 学 院 (2010)
人文学部 英語英米文化学科 人文科学研究科
人文学部 ヨーロッパ文化学科  博士前期課程
人文学部 日本・東アジア文化学科  欧米文化専攻、日本文化専攻、社会学専攻
社会学部 社会学科  博士後期課程
社会学部 メディア社会学科  欧米文化専攻、日本文化専攻、社会学専攻


武蔵大学の校歌

代表的なものは武蔵大学讃歌があります。

武蔵大学讃歌の試聴(internet explore版)
武蔵大学讃歌マーチの試聴(internet explore版)





最 新 の 施 設

学園創立80周年、大学創立50周年記念事業で、平成14年6月末に竣工した大学8号館、左は北西の正門方向から、 右は南側から見たもの



 
面 積 平方米 用 途 内 容
地下1階 1,853.25 書 庫 第2書庫、機械室、倉庫
地上1階 1,676.43 事務部門 学務部門
地上2階 1,376.13 事務部門 学園関係
3、4階 各 866.68 マルチメディア関係 AV関係、教室
5ー7階 各 866.68 講義室 大教室(4)、中教室(4)他
8 階 866.68 記念ホール ホール、会議室
屋 上 階 93.89 機械室 EV機械室
1,199.78 地上41.6m 地下7.7m

構造 プレキャストコンクリート造 総工費 約35億円、施工 清水建設、工期 平成12年8月〜  この8号館の建設資金の一部は、学園創立80周年・大学創立50周年の記念事業に賛同くださった在校生父母、 同窓生、関係企業・団体、関係者他の各位のご寄付によるものです。



平成19年9月大学10号館(学生会館)落成、 自治会、学生の部活動、サークルの部室






トップ