旧制武蔵高校創立者文献目録4 本間則忠人物文献目録 |
最新更新:2版- 2010.01.17 鈴木勝司編
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本間則忠(ほんま のりただ) 慶応(元)(1865)・08・25)− 昭和13(1965)・10・10) 山形県東置賜郡川西町玉庭の出身。明治31年東京高等師範学校理科卒業。長崎県師範学校教諭となる。 35年文部省普通学務局第一課長。38年島根県事務官。39年島根県松江市に下女学校を開校(子守女、給仕 女等の教育、国民新聞 明治39年8月24日、これは『島根県近代教育史』によると「人圓実科女学校」松江 明治40年開校、42年廃校か?)。41年山梨県事務官。43年鳥取県事務官。大正3年大分県理事官。7年栃木 県理事官、視学官。8年文部省事務官。大正12年の『職員録(内閣官報局)』では文部省大臣官房会計課、 事務官三等三級、正五勲五、本間則忠とあり、最終官歴は文部省事務官。 武蔵高等学校の創立を根津嘉一郎に推奨し、自ら財団法人根津育英会、武蔵高等学校の設立実務全般に わたり尽力した。また、『根津家育英事業』、『学校法人根津育英会』、『本校創立事情記録』等の資料 を残している。大正10年ー昭和3年10月7日根津育英会理事。大正13年3月富士見高等女学校(東京府北豊島 郡中新井村大字中六49番)の設立認可を受け、4月修業年限四カ年の高等女学校として開校する。9月文部 省依願免官。13年10月8日ー昭和3年6月8日富士見高等女学校初代校長となる。根津嘉一郎、宮島清次郎、 正田貞一郎、一木喜徳郎の名が当時の富士見高等女学校の後援者として記録されている。(『山崎学園 五十年史』 学校法人 山崎学園富士見中学校・高等学校刊 平成3年)。 今まで、本学園には本間則忠についての人物記録が少なかったので、平成6年5月「武蔵学園記念室」の 開設にともない調査をした。学校法人山崎学園(練馬区中村北)から、富士見高等女学校設立時の本間の 履歴書等の史料の提供を受けた。また山形県米沢市の置賜文化センター米沢市史編纂室は本間の出身地を 調査し、ゆかりの方々を見つけ出された。これらゆかりの方々に問い合わせしたところ、本間が武蔵高等 学校の創立に力を尽くしたことは初耳であるとのことであった。また、島根県立図書館郷土資料室は同県 における本間の教育活動に関する調査をおこない関係資料を提供してくださった。これらの関係機関のご 協力に感謝を申し上げたい。 明治31年 3月30日 東京高等師範学校理科卒業 4月 1日 長崎県師範学校教諭 32年 7月18日 文部省属 35年 4月17日 文部省普通学務局 第一課長 36年12月 5日 大臣官房文書課 38年11月 文官高等試験合格(行政科) 12月 5日 島根県事務官 39年 9月 島根県松江市に下女学校を開校 (子守女、給仕女等の教育 国民新聞 明治39年8月24日)、 (人圓実科女学校 松江 明治40年開校、42年廃校か?) 参考:島根県近代 教育史 第7巻 昭和54、山陰新聞 明治39年8月1日、同9月4日 41年 8月29日 山梨県事務官 43年12月17日 鳥取県事務官 大正 3年 6月 9日 大分県理事官 7年 9月17日 栃木県理事官 9月25日 栃木県視学官 9月28日 栃木県内務部学務課長兼官房主事 8年 6月30日 栃木県内務部庶務課長兼会計課長 7月10日 文部省事務官 大正12年 「職員録(内閣官報局)」では文部省大臣官房会計課で、 事務官三等三級、正五勲五 本間則忠とあり、最終官歴は 文部省事務官。 大正13年 3月 富士見高等女学校(北豊島郡中新井村字中)の設立者として設立認 可を受ける。 大正13年4月修業年限4ケ年の高等女学校として開校する。 13年 9月 4日 文部省 依願免官 13年10月 8日 − 昭和3年6月8日 富士見高等女学校初代校長に就任 昭和 3年10月 7日 根津育英会理事辞任 昭和13年10月10日 病没 (経歴、文献の調査については、学校法人山崎学園(富士見中学校・高等学校)、山形県米沢 市立図書館及び島根県立図書館の協力による。) |
(文書・記録) N001 根津家育英事業(大正十年五月十日披露会ノ席上ニ於テ) こんにゃく版 [大正10〜] /武記 翻刻 → 年報 創刊号 平成7.07(1995) [内 容] 育英事業ノ思ヒ立及其ノ経過 根津嘉一郎談 [4p.] (年報:pp.2-4.) 七年制高等学校ノ必要ナル趣旨 一木喜徳郎談 [6p.] (年報:pp.5-8.) 施設計画ノ要旨 本間則忠談 [12p.] (年報:pp.9-15.) 寄付行為証書 [10p.] (年報:pp.76-81.) 七年中学設立ノ趣意並実施要項 (大正八年第二回ノ協議案) [9p.] (年報:pp.67-68.) 根津育英会ニ関スル教育私見 (披露会ノ席上配布シタル印刷物) 正田貞一郎談 [13p.] (年報: pp.16-22.) 根津家育英事業創設ノ顛末 (大正十年六月雑誌記者ニ対シテ) 宮島清次郎談 [7p.] (年報:pp.23-25.) 施設計画ノ要旨補遺 (大正十年五月全国師範学校長会ノ席上ニテ) 本間則忠談 [8p.] (年報:pp.26-29.) 鉄筋混凝土建テ変更ヲ望ムノ議 (大正十年八月) 本間則忠 [18p.] (年報:pp.30-37.) 武蔵と名付けたる事由 本間則忠 [5p.] (年報:pp.61-66.) |
<著 述>(雑誌−論文・論説・講演) |
H001 論説 教育上の自治を論ず 本間則忠談 島根県私立教育会雑誌 236号 明39(1906) pp.31-32 国会図書館近代デジタル |
H002 施設計画ノ要旨(大正十年五月十日披露会ノ席上ニ於テ) 本間則忠談 →N001 根津家育英事業の内 [13p.] こんにゃく版 /武記 (年報 創刊号 平成7.07(1995) pp.9-15.) |
H003 施設計画ノ要旨補遺(大正十年五月全国師範学校長会ノ席上ニ於テ) 本間則忠談 →N001 根津家育英事業の内[9p.] こんにゃく版 /武記 (年報 創刊号 平成7.07(1995) pp.26-29.) |
H004 鉄筋混凝土建テ変更ヲ望ムノ議(大正十年八月) 本間則忠 →N001 根津家育英事業の内 [18p.] こんにゃく版 /武記 (年報 創刊号 平成7.07(1995) pp.30-37.) |
H005 [本校創立事情記録] [本間則忠記] 謄写版 [10p.] /武 (年報 創刊号 平成7.07 (1995) pp.46-52. |
H006 武蔵高等学校創立ニ関スル経過(昭和三年一月六日記ス) [本間則忠記] [9p.] ペン書き /武記 (年報 創刊号 平成7.07(1995) pp.53-56.) |
H007 武蔵と名付けたる事由 本間則忠 →N001 根津家育英事業の内 [5p.] こんにゃく版 /武記 (年報 創刊号 平成7.07(1995) pp.61-66.) |
<伝記・人物評>(図 書) |
H008嗜好百種 服部太喜弥(大夢)著 服部太喜弥 明治43.11(1910) 262p. 本間則忠:p.31-32 |
H009 山崎学園五十年史 山崎学園五十年史編集委員会編 山崎学園 平成3.04(1992) pp.15-20. |
H010 武蔵七十年史 -写真でつづる学園のあゆみ- 武蔵学園70年史委員会編 学校法人根津育英会 平成5.06 278p. 「本間則忠氏のすゝめ」 p.4. |
N011 武蔵七十年のあゆみ 武蔵七十年のあゆみ編集委員会編 学校法人根津育英会 平成6.04 162p. 本間則忠氏のすゝめ p.4 |
<伝記・人物評>(雑 誌) |
H012 特別読みもの 武蔵七十年史余話(その2) 校名『武蔵』のこと 大坪秀二 武蔵高等学校 同窓会会報 40号 平成10.11(1998) pp.78-82. |
H013 特別読みもの 武蔵創設の「初心」・・・・創立前史に想う 大坪秀二 武蔵高等学校同窓会会報 45号 平成14.07(2002) 「根津嘉一郎と本間則忠」ほか pp.14-24. |
H014 教育界の先覚者 本間則忠のこと 大滝則忠 米沢有為会 東京支部だより 4号 平成20.06 (20087) |
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