武  蔵  の  石  碑



武蔵学園記念室編

2010.11.15


武蔵学園(武蔵大学、武蔵高等学校中学校 東京都練馬区豊玉上1−26−1)の構内にはいくつかの記念石や石像物が残されています。これらの由来を通じて、教職員や学生・生徒諸君に学園の歴史について関心をもってもらいたいと思います。そして、キャンパス中を探索して、木々に埋もれてひつそりと歴史を語る記念石を訪れてみてください。



濯川の再生改修で設けられた、水飲み場。図書館棟の地下にたまる地下水を放流して、川の水量確保と水質改善を図っている。以前は飲料が可であった。雨が続いた日の後、放流を見ることができる。

以前はここに小魚がよく集まってきたので、川蝉(カワセミ)がきていたのを見かけたことがある。コバルトブルーの小さな体に似合わず大きな嘴(クチバシ)に感動した。樹木や環境を大切にしていたら、また戻ってきてくれるかな。


濯川の一の橋下の水飲み場



不動明王石像

不動明王石像 年代不明。この地はもと板橋区で東京区部でも一番といってよいほど石像物が残されています。近郊農村地帯で、民間信仰の石像物が数多く残されているのです。
戦後板橋区の南西部が練馬区となり、二つに分かれましたが、ここ練馬区でも農村の伝統を伝える石像物が多く残されています。
ちなみに、大正11年に武蔵高校が開校する以前、 この付近は畑や田圃で数軒の農家があり、創立者の根津嘉一郎翁の著書によりますと、七個所に墓地(農村では田畑の一部に墓を設けていたとこも多い)があったとのことです。 一部は学術的に発掘調査され、江戸の延宝期のものと記されています。現在の一の橋の南テニスの壁打ちの手前の小高い木々の所もその一つです。
というわけで、武蔵の中も民俗学の宝庫?でもあります。お不動様は一見すると、庚申信仰の青面金剛のようにも見えますが、後背の火炎等から見て、不動明王像です。墓地もあったことから、もともとこの付近にあったものと考えられます。石像は練馬区の「石像物調査報告」にも記録されていません。この付近は武蔵丘陵の背で、昔から干害に多く見舞われていたので、丹沢の大山(雨降山大山寺の不動信仰で、中村橋駅の千川グリーンベルトの不動尊はその実例、明治以降は「阿夫利神社」の方が有力となった)や富士山の浅間神社の民間信仰が盛んで、区内の富士街道は大山参りのルートの典型です。場所:濯川欅橋




慎独寮(尋常科)の積翠園(庭園)の記念標(昭和7年)

(旧制)武蔵高校には尋常科生(ほぼ現在の中学に相当し、4年間。この後高等科へ進学し3年間学んだ)の学寮として慎独寮があった。 旧制高等学校でも尋常科の寮はめずらしく数が少ないものでした。寮生が約60名ほど寄宿しており、この寮の第十回開寮記念式が昭和7年9月17日にあって、 一木喜徳郎前校長、山本良吉教頭、根津嘉一郎理事長など総計120余名の教職員や父兄参列のもとにおこなわれました。
この時、先生や寮生が苦心して作った庭園 (積翠園)の記念標として、この石の除幕式が行われ、一木、根津両氏の松の御手植えにはじまり、会食をおこなって記念式を祝ったのです。 この庭園は現在の大学の学生食堂あたりの位置にあたりますが、昭和20年4月13日の米軍B29機による空襲でこの付近の学校の木造建物(慎独寮(一部消失を免れた)、木工金工室、弓道場、等約800坪) は焼失してしまいました。かくして、今はこの石のみがひっそり歴史を語っているのです。(参考文献:慎独寮二十年史 昭和十八年)


積翠園 開寮十周年記念[皇紀] 二五九二年(昭和七年)と刻まれている


場所:大学5号館入口の東側の植込


開寮十周年記念写真、正面にこの石がある


当時の慎独寮。ちなみに高校寮は、現在の環七道路付近に双桂寮、愛日寮などがあった




北極標石3点(昭和3年)

北極標(1) 構内に三個あり、北極星の方向を示している。当時の磁北偏角がきざまれている。開校記念式(全学年がそろった)の一環として昭和3年11月(1928)に作成されたもので、古い記念石である。場所:三号館正面の赤松の根元。

北極標(2) 北極星の方向を示す。「磁針偏角西五度 二五八八」と刻まれているところから、昭和3年に作成されたことがわかる。大学体育館の建築に伴い今の地に移つされた。今は湿った地盤のせいか半分埋もれて傾き、普段は記念樹の落ち葉に埋もれて、この石に気づく人は殆どいない。場所:高校体育館。

北極標(3) 場所:濯川の欅橋畔にあり、W5゜5 1921と磁北偏角がきざまれている。

古い記録には、「北極標 本校内に於ける方位を明示するために設けたもので、自然石に北極星の方向を指示した矢印を刻してある。これは本校玄関口、学生集会所入口及びススキ河畔の三ヶ所に設置してある。 二五八八年一一月」と記されている。





古恩軒碑と正田建次郎先生レリーフ

古恩軒碑 原田享一教授は武蔵高等学校の文化学部、山岳部の育ての親で国史を担当していた。 著書に「近世日本演劇の源流」がある。多くの生徒から慕われ、歴史に興味を持つ生徒を育てた。 昭和13年在職中に亡くなられた。当時の渾名はオンケルと呼ばれていたで、没後、 構内に植樹し恩軒森と命名。山本良吉校長の詩碑が作られた。別編の墨跡展に有隣がある。 場所:高校中学図書館棟南の森の中。

   墨跡展

「第三代学長 正田建次郎先生」レリーフ 昭和47年3月20日。第二十回経済学部卒業記念」高さ約2m。正田先生は武蔵高校の創設者根津嘉一郎翁の友人であり、武蔵高校創設に宮島清次郎氏と共に尽力した正田貞一郎氏の次男にあたる。専門は代数学、大阪大学長など歴任。昭和40年より、武蔵大学長、武蔵高校中学長に就任。後に武蔵学園長に就任した。学士院会員。文化勲章受章。70年安保闘争の渦中に学園の五十周年記念事業を成功に導いて、今日の武蔵学園の発展につなげた。温厚な人柄や器量の大きさで多くの学生・生徒や教職員から慕われた。いわば、武蔵学園の中興の人とも云える。場所:濯川の八角井戸の前。






欅橋名石と武蔵水準標

濯川のケヤキ橋名石。昭和7年5月16日、濯川の七橋にそれぞれ橋名札を付けることになり、 この橋名は武蔵高校の漢文の加藤虎之亮(号:天淵)教授の揮毫したもの。今日原形を残っているのは、 ここと十年橋碑の二カ所しかない。詳しくは別編の
濯川 -歴史と景観-

千川上水(5)

水準標 気象観測の必要から、昭和5年7月、武蔵高校科学部、OBの協力で、陸地測量部の技手により海抜測定がおこなわれ、水準点に準じた標石が設置された。東経139゜40.3゜北緯35゜44.0゜、海抜38.295mとなっているが、最近GPSで計測したところ、誤差があることがわかったという。今日では記念標になっている。






十年橋碑と錬心館跡の碑

十年橋碑 山本良吉教頭の筆跡。昭和7年5月16日に濯川の7橋が命名され、 各教員の揮毫によつて橋名の碑が創られた。今日では欅橋碑とこの十年橋の2カ所しか残っていない。 詳しくは下記の「濯川」を参照してください。
濯川ー歴史と景観ー

錬心館跡の碑 昭和52年に建設。昭和20年4月14日大空襲によって、(旧制)武蔵高校でも現在の大学5,6,7号館付近一帯ににあった慎独寮、弓道場、不退堂(謡曲の建物)、金工木工室、そして錬心館と呼ばれた剣道場等が火災で焼失した。この時、米軍のB29爆撃機より投下されたM69焼夷弾を当時の生徒で後に教員になった人が保管していて、現在、学園記念室に展示されている。ちなみに同年3月10日の東京下町の大空襲では300機のB29が32万発の焼夷弾を投下し、一面火の海となり10万人以上の人々が亡くなっている。






泉橋碑とINNER VISION V

泉橋碑 内田泉之助教授の筆跡。昭和10年初めに根津嘉一郎理事長の喜寿を祝して、 喜寿島が作られ、この時中の島より喜寿島へかけられたのがこの泉橋であった。そしてこの先は喜寿島 であった。この泉橋碑はしばらく行方不明であったが、最近池の中から見つかったので、ここへ再建した。
濯川ー歴史と景観ー

INNER VISION V 高濱英俊作 同氏寄贈によるもの。高さ約1.9m。 場所:大学図書館棟の南




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