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4 富士見台駅 〜 桜 台 駅 6 要町通り 〜 巣 鴨千 川 上 水 展


千川上水(5)武蔵学園 〜 要町通り

                 最新更新:2012.12.29


昭和7年の武藏高等学校全景 現在のキャンバス、6千分の1


武藏高等学校(当時・板橋区中新井一丁目、千川の南側)周辺の航空写真。道路(今日の千川通り)の左側に千川が流れている。手前は武藏野鉄道の線路。キャンバスの中央を分断して流れる 濯川(巻頭の写真)はもと千川用水の第3番目の中新井分水(中新井分水は宝永4年(1707)開削された)であった。写真で見ると、以前この分水を中心に水田が南方向に向かって徐々に扇状に広がって分布している様子がうかがえる。左手の線路沿いの森は武蔵野稲荷神社。中新井分水 が学校キャパスのほぼ中央を分断するように流れていて、この用水は明治10年の文書によると、分水口は2寸四方とあり、明治42年測量、昭和12年修正の1万分の1の地図にも記載されている。これによると現在の高校の東門付近から、北新井公園を通ってほぼ南に向かい、目白通りを横切り、中野の当時の東京市療養所前で 中新川に合流していた。上流篇でふれた、1番、2番の中新井分水ともに約11町歩の田圃を潤していた。

ちなみに、この千川上水より南側の地は江戸時代は中荒井村(おおむね今日の豊玉地区)といわれ、明治以降中新井になった。北条氏康は永禄2年(1559)に小田原衆所領役帳を作ったが、その中に「一、森新三郎 買得 拾四貫五百文 元吉原知行 江戸廻中新居 此度被改上 知行役可申付」と記録されているところから、中世より村が作られていたことがわかる。
天正18年家康入府以来豊島、新座2郡に約千石の知行を賜った板倉勝重は以来2、3代にわたって中荒井村を知行してきた。江戸の正保時代の武蔵国図の石高を記した武蔵田園簿によれば、板倉周防守(重宗)の知行地で135石2斗6升余(田方79石、畑方55石)の村高であったが、板倉家は後の代に伊勢三重郡内へ転封となり、元禄11年(1698)幕府の直轄地となって幕末に至った。村方文書は残されていないので、千川家文書の水料から計算すると安永2年(1773)で10町1反、寛政4年(1792)で11町1反、元治元年(1864)で17町5反になるという。これらをみると、千川の中村、中新井3分水が果たしてきた役割が如何に大きかったかがわかるのである。(参考 練馬区史 歴史編 昭和57)


武蔵学園のキャンバスを流れる中新井分水の大正11年頃の姿は当時の武蔵高等学校の教員によると、当時幅約一尺ほどの小川が流れていたと証言している。そしてこの小川を拡幅して川にしようとの話が出て、根津嘉一郎(初代)理事長も乗り気であったため、教員、生徒が一体となって年々拡幅し、周辺に木々を植えてきたが、一時は相当の川幅となり舟を浮かべた時もあったという。そして、この川を漢学に精通していた山本良吉校長が屈原の「楚辞」の漁夫の詩から濯川(すすきがわ)と名付けて、爾来教職員や生徒から親しまれてきたが、昭和27年秋頃の千川本流の暗渠化の結果、しばらくして千川からの水源が断たれ、長らく、降雨時に川となる自然の状態で放置されてきた。これは今日から見ると、素掘の千川のありのままの姿を彷彿とさせるものがあって、これはこれで貴重であったと思われる。

昭和40年代初頃には、川縁の木に五位鷺が営巣していて、巣立ち前のヒナが落ちてきて、エサのドジョウを求めてきて、2、3日面倒を見ていたが、夜行性(五位鷺は夜飛びながらか、カアカアと鳴くいわれるほどで)で昼間はほとんど動かず、朝出て来ると、職場はあちこちフンだらけという状態で、結局、豊島園の動物園に預けたことがあった。ところどころ深く抉れた川底には厚く汚泥が堆積し、よく近隣の子供たちがエビガニ採りに来ており、落ちると危険でもあり、さらに大雨が降ると川があふれ下流に水害を起こすおそれもあった。

昭和60年に学園の記念事業として関係者や同窓生から寄付を募り、濯川の蘇生計画(循環式)が実施され流れが蘇がえった。流水域わずか200メートル足らずの東京で一番短い川かもしれない。しかし、全国的に見ても校内に川が流れている学校は少ないのではなかろうか。その意味で学園では教育環境として、この歴史ある川を大切にし、周辺にかつて武蔵野に見られた草花や樹木を植えて自然を大切にしてきた。現在、この川畔は、練馬静けさ十選の一つにも指定され、練馬の名木に指定されている大欅、しだれ桜、いろはもみじとともに、春の桜や新緑、秋の紅葉の頃は見所となっている。これらの写真は、このHP上の「武蔵花暦」に収録されている。この川には真鴨、セキレイ、時には、迷子の小鷺が羽を休めに立寄ったり、地下水の放水口で、じっと小魚をねらう川蝉を見かけることもあった。また、学園記念室にはここに収録した千川の写真バネルを展示している。千川通りに面した正門の守衛所で申込めば誰でも自由に校内を見学できる。

かっての千川分水の名残をとどめて今も残る水門。堰を越えた水はこの手前で暗渠の放水口に落ちる。大雨で溢れたときのみこの記念物的な水門を流れる。今日、千川分水でこのような水門が残されていることは希である。(高等学校研究室棟北側)


昭和5年に設置された、東経139度40分3秒、北緯35度44分0秒(最近GPSで計測したところ数百メートルの誤差があったといわれている。)、海抜38.295メートルの水準標メモリアル(大学8号館前)


校内の流れは、上記の水門手前で地下に入り(暗渠化)、高校正門の下を通り、すぐ南にある北新井公園に入る。その川筋は道路脇に残されているこのマンフォールが目印となる。この後南に向かい下水となって目白通りの下を通過し、かつての中新井川に下る。


なお、この学園内を流れる濯川については、関心をお持ちの方は下記を参照してください。

濯 川 −歴史と景観−

武 蔵 の 石 碑

 

 
マップ5 (武蔵学園〜要町通り)縮尺約2万分の1
所要時間:徒歩約1時間10分




千川上水探訪ガイド(5)

1.千川上水(昭和16年刊、文献1)によると、「武蔵高等学校の横の新道路は未だ工事半で、広大な地面が雑草に蔽はれたまま放置されてある。」、これは今日の環状七号線道路のことで、記念室には戦中、戦後まもなくは付近の人たちが食糧増産のため畑を作っていた写真(昭和30年代の初め頃の写真にもその様子が残っている。)などがある。


南には、写真の十三間道路(今日の目白通り)が造られていて、戦時中は、いざという時、飛行機の滑走路としても考えられていたという。その故か電柱などはない。(昭和15年頃)

現在の環七の桜台陸橋の脇付近から北に羽沢から桜台境を石神井川方向に向かっていたのが下練馬村分水で、環七建設で跡形もよくわからない状態であるが、明治24年の地図に記さている。数年前、練馬郷土資料室で千川家から寄贈された千川資料を中心にして千川上水展が開催された時資料の中の千川絵図(製作年不詳)を渡辺学芸員と見ていたところ、あまり記録がなかったこの分水が絵図に記されていたので、歴史のある分水ということで驚いたことを記憶している。現在は一部が路地状となって痕跡をとどめている。

2.武蔵野稲荷神社(5−5)(栄町10)の奥宮のあたりはかつての古墳(円墳、須恵器出土)といわれており、千川から水を引いた堀があったともいわれている。境内の春の桜、秋の銀杏の黄葉が美しい。
武蔵高等学校が開校した大正11年に、この神社の裏に生徒の通学のために朝、夕の2回だけ蒸気機関車が停車する武蔵野鉄道の最初の江古田駅がつくられた(現・えこだ駅はその後3回目の移動で現在の場所になった)。卒業生の話では数メートルの木製のプラットホームがあったそうだ。そして、学校でも武蔵野鉄道に通学の便をはかってもらうということで別途お金を支払っていた記録が残っている。ちなみに武蔵野鉄道は明治45年に設立され、大正4年4月に池袋〜飯能間43.8キロが開通した。当初は蒸気機関車による貨物輸送が中心だったが、大正11年11月に所沢まで電化された。大正震災以降沿線に移り住む人が増え昭和3年に練馬まで複線となり、そのご発展し、昭和20年9月武蔵野鉄道、旧西武鉄道、食料増産会社の三社が合併し西武農業鉄道となり、翌21年11月西武鉄道となった。

3.この先スズキ病院の前のグリーンベルトには練馬区教育委員会による清戸道の石碑と千川上水の説明板が設置されている。

4.以前は江古田三叉路(5−13、14)、江古田二叉とも呼ばれている。現在は五差路になっていて、江古田の名は駅名と「江古田二叉」というバス停に残るだけ。練馬区には江古田という町名はない。千川通りの北側一帯は以前は江古田新田と呼ばれていた地域で、今日の中野区の江古田町の新田というつながりがあったことから呼ばれるようになったのかもしれない。江古田の名の起こりは古い田んぼ説、荏胡麻説、えごの木説等がある。さらに、ここ江古田はエコタ、エコダ、エゴタ、エコダ(駅名の発音)など人によりいろいろ発音されるが、その名の起こりと共に確定できない。ここで千川は交差点を横切り道路の南側に転ずる。現在はビルになり、一階の滝島酒店(旭丘1−66)の以前の写真はで、この正面店先に大正4年に建てられた千川堤植桜楓碑(5−9)があったが、昭和27年に始まった暗渠化工事や千川通りの幅員拡張にともなつて、今は、ここから数分先の西武池袋線江古田駅北口前の浅間神社(小竹町1−59)の入口の右手に移設されており、自然石の2メートルにおよぶ堂々としたものである。江古田駅の西側にホームの下を通る地下通路があるので、これを行くと神社の目前に出られる。是非寄っていきたい。
これには大正天皇の即位を記念して、下練馬村、中新井村、長崎村、上板橋村4村の篤志家たちが千数百株の桜や楓を植樹したと記されている。これにより千川の桜(染井吉野)も玉川上水の小金井桜(山桜)のように名が知られるようになつた。数年後には「武蔵野鉄道で千川上水の桜を見に行こう」と広告が出たといわれている。さらに境内には天保10年に岩渕宿の行者寄進、小竹丸祓講により築造された(これ以前の碑も残っているが)高さ8メートル、直径30メートルに達する都内でも有数の規模の 富士塚(5−10)があり、昭和54年に国の重要民俗文化財に指定されている。

5.二又から5分ほど、巣鴨信用金庫の南に位置する旭丘1丁目の練馬区旭丘地域集会所の玄関先の植え込みに、以前はグリーンベルトにあった、今日では数少ない千川の境界石(5−11)が残されている。このとなりには明治37年に千川上水の土堤に建てられ、昭和48年頃まで使われていた火の見櫓の半鐘(5−12)が保存されている。

6.この先、電柱に記されたプレートが目印で、旭丘1丁目16番地と33番地の間で、南へ入る道があり、これを少し行くと中野区江原町となる。ここには以前江古田村分水があって、南流して妙正寺川沿いの水田を潤していた。


7.二又から10分ほど、千川は練馬区から豊島区に入り、90度北東に転ずる。昭和7年の東京史編入以後30年代にかけて行われた当時の土地区画整理により、地域の発展とともに水田を放棄し、用水は新設された道路脇に付けかえられて側溝となり、その後暗渠となっていった。千川上水もその本来の目的を徐々に失い、加えて戦後直後の大型台風の襲来などによる溢水によって、地域の住民にとっては災害をもたらす厄介な存在となり、かっての名所としての桜並木も通行の邪魔となっていった。
暗渠工事は板橋区より下流部はほぼ戦前に進捗をみたが、練馬区内は終戦後の混乱もあってしばらく着手されないままであった。そこで昭和25年5月に地元住民の願を区議会が取り上げ、これを東京都へ請願におよんだ。その結果26年中に具体的に予算化され、この練馬区と豊島区の境から千川の暗渠化が上流の二又(745メートル)に向かって暗渠化工事が着手されたのは昭和27年3月26日で、二叉が同8月30日に竣工している。費用は約840万円。更に都バス練馬営業所までが同27年10月(同、885万円)と年々上流に向かった。

8.ここの交差点にはもと水番所(今はファミリーレストラン)があった。ここからほぼ南東に向かって分かれていたのが、 落合分水で、葛ヶ谷分水とも呼ばれた。明治10年分水口約3寸1、2分四方、妙正寺川周辺の4町8反の田を潤していた。この付近には千川地蔵(5−22)があった。この交叉点の信号の下の歩道に公共基準点(建設省道路部)がある。


30cmほどの鉄のマンフォールのふたが目印。この前にあるファミリーレストランの後方付近に大正時代初期に籾山牧場がつくられた。これは地図に記されている。千川通りをへだてて向かい側のマンションのところに、牧場の解説ボードが設置されている。
西武線の踏切を越えると、以前は一段と桜の名所だったところ。

9.この先には明治24年の地図を見ると水車記号がある。現在の水道端派出所あたりで、


通称岩崎水車、明治10年に小山三右衛門によって操業されたとあり、水輪直径一丈八尺、ひき臼計20台程の規模であった。ちなみに明治18年の「水車場箇所及び所有者人名調」によると、長崎村三千七百九十三番地、大野久兵衛、岩崎喜之助となっている。明治24、42年の地図にも水車記号がある。さらに行くと、千川中学校前あたりは川をまたいだ筑樋があったところで、歩道は道路より徐々に高くなる。このあたりは千川開削の技術的な苦心がしのばれて興味深い。

10.都立牛込商業のところで千川は平行していた道路から離れ、右にカーブする。遊歩道には金網で囲まれこの中で子供たちが遊んでいる。少し上流に移設された 庚申塔(5−32)はすぐそこにある。ここに詣でて、さらに数百メートルで元庚申橋だったところ、よく見ると橋の位置(5−34)を示す仕切石が残されている。またこの付近には水準点標石があったが、いまは失われたという。ここからは千川親水公園(5−35)で、区民の消えた水辺の風景を取り戻したいという市民運動により、この先要町3丁目の児童遊園で長さ100メートルにわたり暗渠部分を掘り起こし川を作り、コイなどの魚を放すという復元の計画で1994年の完成を目指すものであったが、その後の財政、経済状態の低迷により、今はさたやみになっている。
この遊歩道を歩いていくと、道の中央部の所々にマンホールがある。左手の道路より一段高くなっている。

11.しばらく行くと広い要町通り出る。右手の元釣堀(5−38)のあったところはマンションになっているが、以前の橋板の石(5−37、38)が道路の脇に保存されている。

この付近が谷端川(やはたがわ、長崎村分水)(5−37)の出発点でもあり、文献1では、昭和15年現在、千川からの分水口の様子が記録されている。
この川について新編武蔵風土記稿は「小石川谷端川 長崎村ヨリ出ル細流落合テ、池袋村・滝野川村・巣鴨村等ヲ歴テ、小石川村ニ至テ此名起リ、橋戸町・柳町ヨリ伝通院東ノ方ヲ流レ、夫ヨリ水戸殿屋舗内ニカゝリ、流末同屋敷外、南ノ方往還ニ架セル仙台橋ノ辺ニテ、神田川ノ上流ニ合ス、昔ハヨホドノ川ナリシニヤ、広キ地名ニモ唱ヘテ聞エタル川ナリ、後年追々道敷等ニ埋立ラレ、今ハ川幅広キ所ニテ三・四間ニ過ズ、此川巣鴨村ニテハ谷端川ト称ス」と記している。

5−1 環状七号線用地(昭和15年) 5−2 武蔵高校門前の千川(昭和15年)
現在の桜台陸橋付近から南方を望む。校地の一部が環七用地となり、分断されてしまった。手前が千川、右手の建物は武藏の外人教師住宅。左は集会場別館があった。 高校正門前から下流方向を望む。左手の木々の下に千川が流れている。
5−3 校門前黄バス停留所(昭和15年) 5−4 校門前の割新橋(昭和15年)
武藏高等学校の校門前を上流に向かって写す。新橋駅を起点とする前掲の黄バスが千川に沿って、舗装道路を走るようになったのも近年のことである。写真では、川はその南岸の小さい土手に隠れて、わずかに両岸の桜並木が川の位置をしめしている。 ちなみに、当時、目白から武蔵まで2区間で10銭であったという。停留所は武蔵高校前。 武藏高等学校正門前の千川。生徒により実測中。ちなみに左の写真の黄バスの前は、大正15年できたダット乗合自動車(合資会社、資本金10万円、営業所は椎名町1−6、自動車9台、運転手8人、女車掌10人 )というバスが通っていた。コースは、目白駅ー江古田駅ー武蔵高校前ー三枚橋ー練馬駅ー豊島園(開園大正15年)(全線3区、1区12銭)
5−5 武蔵野稲荷神社(昭和15年) 5−6 学校沿いの風景(昭和15年)
武藏高等学校の前面には武蔵野稲荷神社があり、古墳を正面に拝殿が設けられ、境内も広く参詣者のための座敷が細長く続いている。このやや下が武蔵野線江古田駅の正面になる。 学校そいの千川の風景、学校を中心とした上下一帯の堤の桜は特に美しい
 
5−7 武蔵野稲荷神社の橋(昭和15年) 5−8 戦後の千川の様子
武藏野稲荷神社の橋を下流から写す。
二又より上流方向を見た千川。写真は滝島酒店のご主人の提供によるもので、昭和27年以前。
                                                 


5−9 浅間神社の境内にある千川堤植桜楓碑(大正4年建立)。もと江古田三叉路(二叉)の酒屋さんの前にあった。

5−10 江古田富士塚、天保10年。現在都区内には55座の富士塚(このうち国指定の重要民俗文化財は3座)が残されており、練馬区には他に下練馬富士(北町、浅間神社、明治5年再築、昭和2年移築)、中里富士(大泉、八坂神社、明治6年)、氷川神社富士塚、築造年不明の3座がある。

5−11 練馬区旭丘地域集会所前の千川境界石 。平成8年に調査した時はグリーンベルトのオオムラサキの根元にもあり、地元の人たちが大切に守っていたことを思出した。

5ー12 同所付近にあった火の見櫓の半鐘で、地元の人達が大切に保存してきたもの。

                                                 
5−13 二叉の滝島酒店(昭和15年) 5−14 江古田三叉路(昭和15年)
この写真は江古田三叉路、または二叉と呼ばれているところにあった滝島酒店。下流方向から来ると、追分になっている。実際は北に江古田駅、南は中野方面への五差路になっていている。酒店はビルの一階でお店は続いている。ご主人に写真を見ていただいたところ店の裏側(千川側)を撮ったもので、千川に板をかけていた利用していて、隣に交番があった。店の正面に今は浅間神社に移設されている千川堤植桜楓碑(77)が建てられていた。練馬区史によると、この付近が暗渠化されたのは昭和27年夏頃。   通称千川二叉、現・東京三菱銀行江古田支店の前方で川は道路の左から右に移る。ここから椎名町8丁目の千川屈曲点までの間、約700メートルの間にはやや人家が密集している。
5−15 下流方向からみた二叉(昭和30年頃) 5−16 現在の状況
下流方向からの江古田三叉路(二叉)の滝島酒店。千川はすでに埋められて暗渠化されている。酒店の南隣は千川の上に交番が建てられているが、後に江古田駅の踏切脇に移転した。ここはいわば追分になっていて、実際は南に目白通り、千川通り、商店街通り、北に江古田駅踏切への五差路になっていている。正面に今は浅間神社に移設されている千川堤植桜楓碑(77)がまだ残されているところからみて、この付近が暗渠化されたのは昭和27年夏頃であり、碑はこの後しばらく残されていたことがわかる。   現在の二叉。今は江古田二叉のバス停にその名が残るだけ。正面のビルが滝島酒店。銀行は現・東京三菱UFJ銀行江古田支店で変わっていない。千川通りは向かって左側。
5−17 武蔵高等橋(昭和15年) 5−18 同所の現在の姿
板橋区江古田町、武蔵高等橋。学校から800メートル下流に当たる。並木の右側は目白に達する道路。上流に向かって写す。どうして橋に学校の名が付けられたかというと、ここから南方100メートル余の所に鎌田都助(くにすけ)教授が住んでいて、その付近の居住者中の古参であったため、みんなで橋に学校の名を付けてしまつたと云われている。当時は「武蔵高校」より「武蔵高等」と呼ばれていたようだ。 武藏高等橋があったところ。現在は東信用金庫前のグリーベルトと歩道の位置付近。千川はこの下にヒューム管に流れている。
5−19 江古田分水の箇所 5−20 黄バス千川停留所付近(昭和15年)
旭丘1丁目16番地と33番地の間で、南へ入る道があり、これを少し行くと中野区江原町となる。ここには以前江古田村分水 (明治10年で分水口は約2寸6分四方、田3町3反に通水)があって、南に行くとここは中野区となる。分水は南に流れて水田を潤し、中新井川(江古田川)に合流していた。
豊島区椎名町八丁目、黄バス千川停留所付近。川がこの地点で目白に達する道路の下を潜って左折する。 図は下流に向かって写したが、写真の中央道路の石垣は昔の潅漑用の分水口の跡と思われる。この分水は落合分水で、西落合1丁目、2丁目をへて西武線を横切り同5丁目において妙正寺川に入っていた。全長2キロに及ぶもので、2、3年前まで流れていたが、落合方面から練馬へ行く新十三間道路の工事の結果閉鎖された。道路の向い側の川縁に千川地蔵尊(現・練馬区旭が丘、能満寺内に移されている)が立っている。
5−21 現在の姿 5−22 千川地蔵尊



昭和15年当時の千川地蔵尊のお姿、右は現在の近くの能満寺に移設された千川地蔵尊。隣の石柱には「大正十四年十月廿一日千川浚の御時高木森作どの者□上り給ふ地蔵尊」と彫られている。
千川はここで90度左手に転回する。まっすぐ行くと目白方向、右は目白通りへ通じる。左手正面の現在のジョナサン前あたりに、移設される前の千川地蔵尊があった。信号の下に公共基準点がある。道路の南のマンションの一角に、以前この付近一帯は牧場であったという、乳業会社による大正時代の牧場の説明版が設置されている。

千川地蔵尊は、豊島区との境にあった五良久保橋付近より拾い上げられ、昭和27年千川の暗渠化で練馬区旭が丘、能満寺の山内に移された。隣の石柱にはこの千川地蔵の縁起を記した昭和6年の句碑がある。お地蔵さんはよく見るとお顔が新しい。川浚いのときお地蔵尊の首がなかったので、新たに作っておまつりしたからである。

5−23 踏切の上流付近(昭和15年) 5−24 踏切付近(昭和15年)
武蔵野線(現・西武池袋線)江古田駅、東長崎駅の間の踏切の上流付近。両岸に小笹が繁茂し、桜並木が続く。 武蔵野線江古田駅、東長崎駅の間の踏切付近(豊島区長崎5丁目)。踏切から約50メートル離れた石橋の袂に(右岸)地蔵尊一基、馬頭観世音一基(宝暦13年)がある。またこれからすぐの所に稲荷の小祠がたっており、その裏には千川にぬける雨水排水用の溝がある。
5−25 現在の姿 5−26 踏切を越えた地点(昭和15年)
暗渠化され道路が拡張されている現在の姿。千川は左手車道から歩道にかけたあたりにあった。 豊島区長崎五丁目付近。依然として桜並木が続く上流に向かって写した。この付近も次第に住宅街と化しつつある。白い標注には「本上水は飲料水に付き汚損すべからず、右違反した者は罰せられるべし」と書かれている。この立て札は写真で確認できるものでも4ヶ所あり、所々に立てられていたものと見られる。
5−27 豊島区長崎6丁目付近(昭和15年) 5−28 同所付近の現在の姿
豊島区長崎六丁目付近。川は桜並木の右側を流れ、左側の川沿いに目下道路拡張がおこなわれている。 この先立教大学運動場付近で、千川は石神井川に流入する一小流と立体的に交叉する。すなわちこの一小流は地下を潜り、遙か下で再び地上に現れる。千川開鑿当時この辺は、技術上或は相当苦労した所かと思われる。 踏切をわたって5分ほどの歩道橋の少し先、豊島区長崎6丁目、左の写真の家がある。平成8年にこの家のおじいさんにお会いしたときは、なつかしそうに千川上水の話をして下さった。千川は道路中央より右側(東側)に暗渠化されているとのことであった。

 
5−29 ご老人のお話し(平成8年3月) 5−30 庚申橋(昭和15年)
長崎5丁目で千川踏査の途中、偶然に、桑原さんというご老人にお会いし、昔の千川の話を伺った。家からご子息の画かれた千川の絵を持ち出されて、見せてくださった。千川の桜並木は実に美しかったと語り、ふと、「なぜあんな美しい川を壊してしまったのだろうと」嘆かれた一言が後々まで記憶に残っている。この当時の桜は大正天皇即位を記念して大正3年に一里二十余町(約6キロメートル)に植樹されたものであるが、昭和34年流れの大部分が暗渠となり千数百本の桜が伐採されてしまった。右から桑原さん、この千川レポートの筆者、隣は日本文化学科生で、学芸員課程を履修していた。 豊島区千早町4丁目。庚申橋。小さい橋であるが、写真の左右手前に欄干が見える。下流に向かって写す。 この辺には川の屈曲が多いので、現在の改正道路は川を離れてほぼ直線に造られ、そのため却って千川の旧態がうかがわれる。 橋畔の庚申塔は概して江戸の初期及び中期の6基の庚申塔が並んでいる。

 
5−31 庚申塔(昭和15年) 5−32 現在の庚申塔
下流からみた庚申塔は安永8年、明和4年、延宝4年(後の二つは不明)のもので、付近の地主の建立にかかり、素朴な農民の信仰を物語っている。
 
庚申塔は元の庚申橋より手前(上流)にあたるグリーンベルトの一角に昭和52年10月堂が再建された。昭和43年頃まで5基そろっていたが、ある日忽然と姿を消し、9年後の52年に北大泉の山林に捨てられているのが発見された。豊島区史にも記録されている重要文化財であり、地元に引取り丁重に安置し、祀られていて、いつも供養の香と花が絶えない。今は千早町4丁目有志が管理している。一番古い一基は行方不明となっている。
5−33 庚申橋下流(昭和15年) 5−34 庚申橋の跡
庚申橋からのぞむ下流の桜並木
 
現在、ここから千川親水公園となるが、この付近から並木に沿って千川上水の復元が豊島区を中心として計画されていたが、今はさたやみになっている。よく見ると、写真の右隅部分に以前の庚申橋(仕切石)が残されている(平成8年3月)
5−35 千川親水公園 5−36 釣 堀(昭和15年)
現在の千川親水公園の風景。右側の道路より一段高くなった土の遊歩道、所々にマンホールがある。
 
豊島区要町3丁目。横手に川の水を引いた釣堀がある。土地には相当の傾斜があり、千川は付近よりますます高く堤を築いて、その中を流れている。この釣堀の外れから川が屈曲し、屈曲点から千川の分水中最大の谷端川(長崎村分水)が東南方へ流る。屈曲点で再び改正道路と合し、又分れる。
5−37 長崎村分水(やはたがわ)(昭和15年5月) 5−38 現在の姿
同所を下流からみたもの。前方は長崎村分水。谷端川と呼んでいるが、板橋区要町四丁目から出て南流し、椎名町駅横で武蔵野線を横切り東流し、500メートルしてから北流し、再び線路を越え、2キロ半北へ行き、東上線井窪駅付近で東流し、省線板橋駅前に出、それから南東流し小石川植物園、後楽園の横を通り、神田川に入る全長11キロにおよぶ長大なもので、分水中最大のものであり、現在もよく分水口の様子が残っている。千川文書によれば水口は7寸四方であるが、現在は3寸四方に縮小し、わずかの水が流れているに過ぎず、殆ど下水に等しい。 現在は、この釣堀のあとには大きなマンションが建てられていた。しかし左記の写真にある橋板の2つの大きな石は道路の端に残され(保存)ている。谷端川については板橋、滝野川でほぼ千川と並行してくるので、その項でもふれている。
5−39 長崎村分水(谷端川)(昭和15年5月) 5−38 現在の姿
同所を下流からみたもの。前方は長崎村分水。谷端川と呼んでいるが、板橋区要町四丁目から出て南流し、椎名町駅横で武蔵野線を横切り東流し、500メートルしてから北流し、再び線路を越え、2キロ半北へ行き、東上線井窪駅付近で東流し、省線板橋駅前に出、それから南東流し小石川植物園、後楽園の横を通り、神田川に入る全長11キロにおよぶ長大なもので、分水中最大のものであり、現在もよく分水口の様子が残っている。千川文書によれば水口は7寸四方であるが、現在は3寸四方に縮小し、わずかの水が流れているに過ぎず、殆ど下水に等しい。 現在は、この釣堀のあとには大きなマンションが建てられていた。しかし左記の写真にある橋板の2つの大きな石は道路の端に残され(保存)ている。谷端川については板橋、滝野川でほぼ千川と並行してくるので、その項でもふれている。


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