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 千川上水(6) 要町通り 〜 巣  鴨

                       最新更新:2005.10.01 



マップ6 (要町通り〜巣鴨・千川上水公園)縮尺約2万分の1
所要時間:徒歩約1時間40分



千川上水探訪ガイド(6)

1.現在は、この谷端川の形跡は道路の拡張や都市化によってわからなくなっている。有楽町線の千川駅は近い。

2.要町通りを横断し、道路から右手に入り、埋め立てられた千川の川筋をたどって人家に沿っていくと、道路にもどり交差点に出る。左手は板橋高校、右手は千川小学校の間の道路の左側のグリーンベルトが川筋で桜並木が続く。しばらく行くと交差点(6−1、2)で、信号機の元に 庚申塔(6−3)がぽっんと残されている。平成8年に来たときは人家の玄関先にあたっていたが、今は空き地になっている。しかし、この庚申塔にはいつ来てもお花が供えられており、心なごむ思いがし、ひととき千川の探訪をわすれ、お遍路をしているような感覚にとらわれる。
昭和14年の地図を見ると、この先は畑地で、現在のように千川沿いに道路がなかったことがわかる。さらに行くと右手に板橋交通公園をこえた左手の板橋区大山西町民家の垣根の下のコンクリート塀に深く埋められ頭だけ出ているものと、この先の家の門前とに2つの境界石(6−3)が保存されている。

3.2つの境界石のところあたりは、文献1によると、昭和15年7月時点で暗渠工事中で、川越街道を渡り下流の>大山の商店街までは暗渠化された跡を留めていたとある。道は左に曲がると大山西銀座通りだが、千川の川筋は狭い人家の間をほぼ直進すると、歯科医院のところで西銀座通りに出る。川筋は通りの右手を通っており、小さな児童遊園はもと千川上水出張所があったところで、この跡地に弁天祠が祀られており、この先あたりがあくたどめがあったところ。

4.この手前の南側に明治24年の地図によると水車記号あり、田留水車(所有者:田中留吉)があった。少し先の菓子店と隣のカメラ店との間の路地には千川の四角2枚鉄板のマンフォールがあり、川筋の上は商店街の人家となっていることがわかる。さらに川筋は田崎病院の下を横切り、川越街道 を横断する。

5.川越街道(6−9)を越えて、東京信用金庫の横の通りに続く、川越街道を振り返ると川筋(6−10)がちょうど病院の玄関にあたる。さらに行くと大山のハッピーロード商店街のアーケードに入るが、ここは旧川越街道、この手前に大山橋があった。商店街を横断して左の道を行くと東武東上線の踏切となる。文献1によると、大山の商店街をぬけた辺りからの千川はすでに戦前に暗渠化サレ跡ヲ留メズとある。これは昭和4年12月に千川暗渠化の許可が出されている。(板橋区史 資料編4)。よって巣鴨にかけて文献1に残されている千川の写真は少ない。しかしこの踏切あたりは建物が増え周囲の状況は変わったものの、今でもどことなく60年前の雰囲気が残っているのが不思議。これを越えると道は広くなり、左手は東京都老人総合研究所、老人医療センターとなる。

板橋第一中学校脇の左の道を行くと左に産文ホールがあり、所々に千川の大きなマンフォール(118)があり、しばらくで右手に板橋税務署がある。この付近で千川から石神井川の堰の上橋下へ向かう約600メートルの水路がある。周囲の地形は北方向にかけて少し低くなっている。これは以前悪水(水の浄化のため )を逃がすためのものといわれているもので、また年未詳の千川上水絵図には洗堰と記されていて、水量調節の施設があったとみられる。明治期にはこの水路にも水車が設置されたという。(参考:板橋区史 通史編 上巻)

8.この先マンフォールたどってしばらく行くと山手通となり頭上は首都高速5号池袋線の高架が行く手を遮る。地下鉄、地下道路、地上道路、2層高架高速道と5層におよぶ道のオンパーレードで千川はどうなっているか唖然となるところ。この区間は事前に少し下調べをしておかないと千川の追跡ができずない。この山手通りを横断すると正面が板橋区役所である。

6.板橋区役所を右手に見て脇の道を行き、さらに中山道(国道17号線)と頭上に首都高速板橋足立線を越える。都営三田線板橋区役所駅の入口を左手に見てまっすぐ行けば旧中山道の仲宿である。千川の流れは国道17号に沿つて歩道を少し行くと、ガソリンスタンドあり、この辺りから旧道にはいったところに喜内古屋水車があった。明治の前期までは千川の川筋はもっと旧中山道よりであった。ふたたび国道17号に戻り、さらに右手に板橋消防署をみて国道をわたり、ななめ方向の板橋郵便局(板橋2丁目42)の脇の道に入る。

<コーヒー ブレィク>

板橋の駅(江戸名所図絵)


「中仙道、日本橋より二里あり、石神井川に架かる小橋あり、よって板橋名発る」

千川の怪物

「寛政十三年辛酉六月十三日、板橋宿のうら通千川の堀にて、怪物をとらへたり。先その形黒く長さ頭より尾まで三尺四五寸もあるべし、背中は黒き内にブツブツと一際黒く、頭は鯰に似て平く大城きに、目は長くして至て細し。口の大さ壱尺ばかり、前の両足は指四本、後ろの両足は指五本なり、腹は白く薄赤くしてまだらに・・・山椒魚の千歳を経し也ともいひ、又はやもりの幾許を経しなりとも、或は岩石竜といふもの也ともいへり。・・・」(津田順敬 本朝諸国風土記)

千川用水(東京府志料 地誌 滝野川村)

千川上水ノ遺址ナリ、玉川上水ノ分派埼玉県新座郡上保谷新田ヨリ来リ本府管内豊島郡関村ニ入り竹下新田上下石神井田中谷原諸村多摩郡上下鷺之宮村ヲ東流シ又豊島郡上下練馬中新井上下板橋長崎中丸金井窪数村ヲ経テ本村ノ東西南三面ヲ繞リ王子村ニ至リ石神井川ニ合ス、其間分派多シ、本村ニ係ル所長サ二十七町二十五間広サ一間深サ一尺、田五町余ニ沃ク。

仁王橋(東京府志料 地誌 滝野川村)

千川用水ニ架ス、本村ヨリ巣鴨村ニ渡ル長サ八間三尺広サ一間木造、往事此辺ニ仁王塚ト云フ一小塚アリシニ由リ名アリ。

石神井川王子川(新編武蔵風土記稿)

郡ノ西上石神井村三宝寺池ヨリ流出ス、又関村溜井戸ノ下流モ此ノ川ニ合シテ一条トナリ、下練馬村ニカゝリテ近村ノ用水トナリ、下板橋宿字根村ト云所ニ堰枠ヲ設ケ、北ノ方ニ引分チ、十条村ニ達スル一条ヲ、根村用水ト号シ、十条・神谷・稲付・岩淵・下村・板橋六村ニ注ク、本流ハ根村ヨリ東北ニ流レテ滝野川村ニ入、夫ヨリ王子金鈴輪寺峡下ニテ石堰ヲ構テ三派ニ分ツ、一派ハ南流シテ二十三ヶ村組合用水、一派ハ北流シテ豊島・十条・王子三村用水トナル、本流ハ東ノ方梶原堀之内・豊島ニカゝリテ荒川ニ入、此川路凡四里余、川幅五間ヨリ七・八間、又ハ十二間ノ所モアリ、此川王子村内ニテハ王子川ト称ス

9.はげしい交通の喧噪から解放されて、しばらく住宅街を行き、道は左手の旧中山道にほぼ沿っている。周囲の地形を見ると、旧街道よりは少し高い尾根筋になっており、この南には前掲の谷端川(長崎村分水)(暗渠)が千川にほぼ並行して流れている。ここから滝野川、巣鴨にかけて千川を開削した工夫が感じられて興味深い。人工の川は一番高いところを通すという意味が今更ながら理解できる実例で、後述の記録にあるように千川の岸は3メートルに及ぶ深さで、水深くとあるところから、これによって流路の調整と護岸の強化をはかっていたのではないだろうか。

10.しばらく行くと右手に板橋一丁目の児童遊園がある。ここに板橋火薬製造所のちの造兵厰への分水口があったあたり。しばらく行くとJR埼京線板橋駅につきあたる。駅前のケヤキの植え込みの下に千川の大型マンフォール(119)がある。

9.板橋駅から上流の下板橋まで、大正3年3月に「千川上水路を暗渠化し中山道の副道とする請願」が出されている。「中仙道ノ警察署ヨリ板橋駅停車場ニ至ル方面道路幅員狭クシテ一朝降雨アランカ泥濘臑ヲ没シ人車馬ノ交通上困難ナルハ一度此処ヲ通行スル者ノ悩裡ニ深キ印象ヲ刻マレ常ニ本町ノ名物語トシテ他ヨリ嘲笑セラレ・・・・ 然ル処此道路ヲ距ル僅カ拾数間ノ南裏ニ千川水路 アリ本町ニ於テハ殆ンド得ル処ナキノミナラズ断崖十数尺ニシテ水深ク沿岸ヲ通行スル老幼者及ビ泥酔者墜落シテ生命ヲ失フモノ往々アリ恰モ本町ニ大ナル穽ヲ存スルガ如ク危険甚ダシク之レ又常ニ吾人ノ遺憾トスル処ナリ若シ此ノ千川水路ヲ掩ヒ此ヲ道路ニ供用シ中仙道ノ副道ニ充ツル事ヲ得バ之レ誠ニ一挙両得ノ策ニシテ・・・・。」(板橋区史 資料編4)。
この記録や先にふれた戦後の練馬区における状況(マップ5の7)は都市化と河川の関係を如実に物語っている。人家が川の周辺まで建てられてくると、素堀の小さな川は住民にとって迷惑この上ない存在となる。多かれ少なかれ、同じような理由で東京の多くの小河川は暗渠化され、単なる排水管化されていった。

11.旧道に出て踏切を越え、また右に小高い道を板橋駅方向へ戻ると、道路を隔てて、北区滝野川6、7丁目となり、マンションの前に大小二つの長方形の 千川上水文字が中心に図案化された鉄製マンフォールがある。これは南側にある前出の長崎村分水すなわち谷端川(排水管)へ行くものと、埼京線に沿って600メートルほど北流し石神井川へ通じるもので、ここまで千川を流れてきた水は、ここで石神井川に落されてしまう。現在のところ、ここが千川の流れの終点である。
(御府内場末往還其外沿革図書 幕府普請方編 文化五〜文久年間(1808〜63)の滝野川村辺乃部の図には延宝年中の形をもとにして、現在の谷端川が千川分水と記されている。)

12.さらに戻って、小高い道を南東に行くと、左手マンションの一角に江戸中期の刻文馬頭観音(6−22)の祠が地域の人達によって大切に祀られている。5年前にはまだ千川筋のあった印象を持っていたが、この観音は千川でなく、おそらく旧中山道に係わり、人馬の道中の安全を祈願したものと考えられる(北区滝野川6丁目62)。ちなみに瀧野川の名は源平盛衰記に出てくるほどの古き地名で、「村名の起りは、村の北王子村境を流るる石神井川急流にして、水声四方に響く事瀧にひとしとて、瀧の川と唱へ始めしより・・・ 日本橋への行程2里、戸数180、東は西ヶ原村、西は下板橋村、南は巣鴨村、北は石神井川を隔て王子村、東西20余町、南北12町、 用水は仙川分水の下流を引沃ぐ・・・」(新編武蔵風土記稿)

13.滝野川村は北に石神井川、南境に谷端川が西から東に流れ、東境に石神井川に注ぐむかたちで逆川が流れていた。しかし滝野川村は台地上に位置していたため、これらの川は灌漑用水としてはあまり利用できなかった。その意味で千川が果たした役割は大きかったといえる。またこれらの河川をめぐって、滝野川、王子は江戸時代に、景勝、遊覧の地としてよく知られ、 文人墨客が数多く訪れ、数多くの地誌、名所案内記を残している。  

14.更に行くと右手に谷端川小学校があり、道路より一段低い。この先明治通に突き当たるところで、 千川上水名が入ったマンフォール (6−15〜19)がある。またこの左角に千川上水分水堰(6ー23)(明治15年7月)がある。これは王子分水ともいわれ、もともとは元治元年(1864)に、幕府が黒船来航に驚いて国防の意味で大砲を製造するため、石神井川の沿岸に反射炉(耐火煉瓦でできた溶鉱炉) (滝野川の大蔵省醸造試験場の一部)を築き、大砲の咆孔を穿鑿するための動力源として水車(錐台水車)が必要であった。このため千川から水を引くことになり、慶応元年9月中旬からから約2ヶ月半を要して大砲製造所建設予定地まで開削にあたった。千川を拡張工事し(この影響は全流域に及んだ)、分水を引いたこの大砲製造所自体の完成、及びこれが操業されたかは不明である。しかし、この建設計画による周辺整備が明治以降この地に近代産業を導入する大きな役割を果した。

15.具体的には、鹿島万平による紡績工場が明治3年に許可され、のちに本所に東京紡績をおこし移ったあと、渋沢栄一が王子製紙のもとをなす抄紙会社を興し、当初は千川や石神井川を利用して水車を動力として使った。その後英国から近代的な機械が導入され、お雇い外国人のもとで明治8年頃から紙が製造されるようになった。また明治政府は紙幣製造ため同8年に大蔵省に抄紙局を設け、石神井川や千川の水を水を引き入れて水車を動かした。紙は越前から7人の職人をつれてきて石神井川を利用して紙漉をさせ、次第に精良なものとなり、局紙と呼ばれた。同10年には王子製紙の隣に抄紙局の工場が設けられた。

16.明治通りをへだてた南が豊島区で、今は区立千川上水公園となってい。地下は六義園への沈殿貯水槽になっていおり、入水と出水の調節バルブが残されている。
実は1993年に豊島区により、この沈殿池を掘り直す復活計画があったが、先の要町3丁目の復活計画とともに中止になってしまった。
ここは千川探訪のゴールでもある。しかし、千川上水の流路はここまで生きており、いつの日かこれらが復元されることを望みたい。江戸時代は木樋によってここから白山御殿(現東大植物園)へ向かいさらに江戸の下町の水道になっていた。

17.ここが探訪ガイドのゴール地点。帰路は、(1)戻ってJR埼京線板橋駅へ出る。(2)徒歩10分ほどで巣鴨庚申塚にお詣りし、ここには都電荒川線の庚申塚駅あり、山手線の大塚駅に出られる。(3)まだ元気な方は、おばあさんの原宿といわれている、 巣鴨の高岩寺(とげぬき(延命)地蔵尊)にお詣りしていくのもよし、30分ほどで山手線巣鴨駅に出られる。更に六義園へも足をのばそうという人は巣鴨駅の一つ先の駒込駅に出れば、歩いて近い。


6−1 豊島区千川2丁目(昭和15年7月) 6−2 左記の写真の現在の姿
豊島区千川町2丁目。耕地の真中を流れて来た川もここから住宅地内に流れ込み、間もなく暗渠に入るのである。千川は実にここで武蔵野と決別するともいえよう。この橋の付近は川幅広く、水深も浅い。この地点から下が昭和15年中に暗渠になる予定であった。ここに架してある橋は、この付近によく見られる一枚岩を四五枚跨いで並べたもので、この橋の所だけ細長い石の護岸がある。橋の袂には地蔵尊がある。 左記の写真の現在の姿、千川は道路になり交差点(5差路)となっている。よく見ると信号の元に、左記の庚申塔(石塔)が残されていて、供花が絶えない。前記には地蔵尊と記されている。写真にある石塔を照合してみると、この庚申塔と思われる。右は豊島区千川2丁目、左は板橋区大谷口1丁目、千川はこの先板橋区にはいる。文献5によると、昭和28年から暗渠工事が始まったらしいが、どの地点かは明確ではないが、たぶんこの付近から上流に向かい、練馬区との境、かって千川地蔵があった辺りは、34年と記されている。この先昭和12年の地図にも千川沿いには道路がない。
6−3 庚申塔と、5−42 境界石 6−4 工事中の千川(昭和15年7月)
上記の庚申塔。側面下方に安永丙申(1776)と彫られた文字が読める。板橋区にはこのような古い石造物が多く残されているという。ここから10分程歩くと、右手に交通公園があり、この先の大谷口中央通りに出る手前の大山西町の民家の垣根の下のコンクリートの塀に頭だけ出しているものと、門前に千川の千の字が読める2つの境界石が残(保存)されている(平成14年1月写)。文献1によると、このあたりは昭和15年7月頃には暗渠化の工事が進められていた。 暗渠化の工事中の千川。千川をいったん堰止め、そばに臨時の小水路を設け、本水路にはコンクリート管が敷設 されている。千川は下流において最近急速に暗渠化されつつあるが、これは子供の水遊びや開渠のため水が汚濁され、この水を使用する下流の工場としては、 水質の清浄を保持する必要があることと、更に一つは付近が急速に住宅化するために、川を埋めて地所をえることが便利なるが故である。 しかし最も主要な原因は、川の付近を遊び場とする子供達が往々川に落ち、速い流れのために溺死する者が多かった点である。
6−5 暗渠の工事(昭和15年7月写) 6−6 昭和14年5月暗渠
暗渠の工事をのぞく 暗渠と水量がよくわかる。
6−7 大山西町の千川のマンフォール 6−8 改正道路の下に(昭和14年)
菓子店と写真屋さんの間の路地に千川の鉄製マンフォールがある。この辺りは商店街の下を千川は写真の左右に通過していく。 昭和4年12月に川越街道の下流域の暗渠化の申請に対して許可が出されている。申請の理由内容をみると、千川上水は往時における灌漑用水より工業業用水として大半を占めること。沿岸は近時異常に発展し市街地を形成し交通が頻繁となって護岸が欠壊し維持修繕の経費が困難であること。塵芥汚物等の投入が多く衛生上実害があり。年々数名でる溺死者を看過できず。よって改修の上一般交通機関の整備に利用せしむ。(板橋区史 近・現代 資料編4)
 
6−9 同所の現在の姿 6−10 下流から川越街道を見る
同上付近の現在の姿、川越街道。千川は東京信用金庫横の道を通っている。(平成8年)
 
川越街道を渡った東京信用金庫横の道から上流方向を見る。2つのビルの間が千川の川筋で、田崎病院の玄関がみえる。(平成14年)
6−11 踏切の手前(昭和14年5月) 6−12 大山駅西方最初の踏切
改正道路を渡り、大山橋を越えた踏切の手前。
大山駅西方最初の踏切。この手前は前図の材木屋の前に出る。おそらくこの道は千川をうめた跡にできたものと思われる。
6−13 板橋区役所付近 6−14 板橋郵便局から上流方向を望む
山手通りを越え、右手に板橋区役所をみて、その脇を進み、その先今度は中山道(国道17号)と頭上の首都高速板橋足立線を越え真っ直ぐ行くと、国道に沿って右方向に歩道を行く。
板橋郵便局から今までたどってきた上流方向をふりかえる。千川は写真向かって右側からほぼ真っすぐこちらの方向へ流れている。巨大な高架道路や地下鉄の建設でいまだ千川が生きているのが、ひととき不思議に思われる程の都市化ぶり。

板橋、滝野川の千川のマンホール5種。右の3点は「千川上水」と刻されている。


6-15 板橋第一中学校脇 6-16 JR埼京線板橋駅前 6-17 千川流水の終点 6-18 千川上水分配堰付近 6-19 千川上水分配堰付近
 

  
6−20 滝野川の千川上水位置 6−21 千川上水流の終点マンフォール
JR埼京線の板橋駅の踏切をこえ、商店街から旧道と平行する 右手の一段小高い道路(背)に上がる千川は流路はこの正面方向(トラックの)に向かう。このあたりは地形を考慮した千川上水流路の開削を考えると興味深い。この路をいったん上流(板場駅)方向へ少し戻ると路面に2つの長方形のマンフォールが目につく。
 
北区滝野川7丁目2。現在の千川上水の流水の終点。2つの千川上水文字マークのはいったマンフォールは南側にある谷端川(暗渠排水路)へ行くものと、埼京線の沿って北上し石神井川へ通じるもので、ここまで流れてきた日量3千トン水はここから石神井川に落されてしまう。
6−22 馬頭観世音 6−23 千川上水分配堰


玉川上水路新座郡上保谷新田ニ於テ分派
樋口寸積百拾六坪八合 印刷局抄紙部、内 三拾三坪四合 王子村外廿弐ヶ村。樋口寸積百五拾坪 千川水道会社。 明治十五年七月造之

先ほどの上水の終点から少し行くと滝野川6丁目62の左手マンションの一角に刻文の馬頭観音祠が安置されている。平成8年にはまだ千川の川筋にあった記憶があるが、本来、観音様はすぐ下の中仙道にかかわり、人馬の道中の安全を祈願したもので、この付近に移されてきたものだという。写真を撮っている間も、買物帰りのご婦人達のお詣りがたえない。
巣鴨、千川上水分配堰、ここで大蔵省印刷局抄紙部、王子製紙工場へ分かれる。和46年に大蔵省は工業用水道に切替え千川の利用の歴史は終わった。この分配堰は明治15年7月に設置されたもの。右側面には上水の水源地、樋口の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年の利用者等が刻まれている。これにより利用者の取水量ががわかる。(北区滝野川6−9−1、千川上水公園と道路を隔てて向かいあっている)
6−24 千川上水公園 6−25 現在の千川上水公園
昭和15年開園の東京市千川上水公園、この公園の前の三叉路のところから主流が王子方面の工場へ岐れている。下流における使用者中最古にして、且つ興味深きもの王子製紙をあげねばならぬと思う。この会社は明治6年に設立され、8年に運転を開始したのであるが、この地に定めたことについては千川及び石神井川が重要な原因をなしている。すなわち製紙業には紙をさらすため多量の清水を要するのであるが、この地に清冽にしてしかも水量豊かなる石神井川が流れ且つ水運の便も良いのでここをその敷地とさだめたのである。千川沿岸の農民に懇請して、石神井側川の用水組合に加入し、ポンプ揚水し千川注ぎ、千川と共に使用したのである。 千川上水公園内の地下は六義園への貯水槽になっていて、手前の給水用と奥の排水用の2基の仕切弁が残されている。ここには岩崎弥太郎が発起人になって明治13年創立した千川水道会社の千川分配堰(今は126のこと)の跡がある。この水道は余水を利用し、本郷・小石川・下谷・浅草・神田方面に飲料水を供給するもので、この水道は東京に近代的な水道が引かれるまで利用されたが、明治41年6月に会社は解散した。千川上水の水は戦後になっても六義園、都水道局、大蔵省印刷局抄紙部、王子製紙などで利用されてきたが、六義園は昭和43年都営地下鉄6号線の工事によって引水が不可能となり、以後は井戸に切り替え、45年には都水道局が取水を中止し、46年に大蔵省も工業用水道に切りかえて、事実上千川上水の水利用の歴史は終わった。
6−26 江戸の巣鴨庚申塚 6−27 現在の巣鴨庚申塚
江戸名所図絵に描がかれた巣鴨庚申塚(右手が塚)。庚申塔は平安時代から始まった。60年あるいは60日ごとにめぐってくる庚申の日に対する庚申信仰からたてられたものである。文化年間の地誌『遊歴雑記』によると、この庚申塔は文亀二壬申年(1502年)建立して、高さ8尺。
 
江戸時代、ここに茶店などができ、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として賑わった。


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