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 千川上水(4) 富士見台駅 〜 桜 台 駅

最新更新:2005.09.22



マップ4 (富士見台駅〜桜台)縮尺約2万分の1
紫線は旧分水



千川上水探訪ガイド(4)

1.中村橋駅近くになるとグリーベルトが広くなり、この付近の標高は42m前後。所々にマンフォールがある。暗渠化された後に植えられた桜も大きく生長している。

2.九頭竜弁財天(4−2)は中村橋駅の西歩道橋の手前の広くなったグリーンベルトに移設されている。もとは九頭竜橋(3−17)の近くにあった。

3.中村分水(4−6、8)は、グリーンベルト中に祀られている大山不動尊(4−7)が目印で、明治24年の地図を見ると、ほぼ南東に下り南蔵院の南から東にまわり、周辺の水田を潤しつつ、学田(学田公園)に合流していた。明治10年の分水口は約4寸3分四方で、田9町4反となっていた。

4.目白通りの手前に第1番目の中新井分水(4−9、10)が南に向かって流れていた。現在はマツダパーキングとマンションとの間の路地(4−10)を南に向かっている。もし時間の余裕があれば、この先も訪ねてみるとよいと思われる。(片道15分程、近くの南蔵院に寄っても往復1時間あればゆっくり見て回れる) しばらく行くと暗渠化された分水道は一方通行の道路となっ南に向かう、周囲の街路樹から川の面影が伝わってきてくる、周囲は閑静な住宅街で、程なく学田公園に達する。明治24年の地図ではほぼ直線的に南流している。この付近の標高は40m前後。学田とは「学校の田ぼ」という意味である。

5.明治9年にこの近くの南蔵院境内に設置された公立小学校(現在の豊玉小学校)が明治17年に現在地に移築したのち学校の運営資金を生み出すため、村人たちが沼地になっていた今のところを開墾(江戸時代は中荒井池と呼ばれ、当時はここが水源となって中新井川(4−11、12)が東南に発していた。今日、この川は中野区に入ると江古田川と呼ばれ、松が丘2丁目の江古田公園付近で妙正寺川に合流している。明和8年(1771)の江古田村鑑帳には「此村用水ハ豊嶋郡中荒井村溜池より落水引申候得共旱損仕候」とあり、池は水が枯れたので、この千川から通水していた。明治10年の分水口は4寸四方で、以下2つの分水と合わせて11町の田を潤していた。このように名は学校田を作ったことに由来する。昭和15年に公園となり、 学田公園と名付けられた。また、ここは中村橋駅から、中村公園、南蔵院、学田公園、中野区民俗資料館を結ぶ練馬すずしろの道(4.3キロ)になっており、この散策も興味深い。

6.南蔵院は山号瑠璃光山、医王寺。ご本尊薬師如来。真言宗豊山派の古刹。近くにある良弁塚の石碑によると、延文3年(1357)に良弁僧都が中興した。江戸時代中期の鐘楼門が練馬区の文化財に指定されている。ここの墓地の入口左手に中新井の分水の近くにあった川布施餓鬼供養塔明治15、後述の矢島弥平次の名も刻まれている。これは大正末期には現在の千川通りが目白通りと交差する手前にあった。(練馬区史 現勢編)、笠付地蔵と日川地蔵の3基が並んでここに移設されている。

7.千川通りを、目白通駆使りとの交差点をすぎると、日川地蔵(4−15)のあったところ、昭和61年に南蔵院に移設された。

コヒーブレィク

練馬の語源

「続日本紀」中の記事の「ノリヌマ」が「ネリマ」となったと言う説もあるが、練馬の初見史料として、「太田道灌状」や「鎌倉大草紙」などの室町期のものがある。練馬の語源については次の4説がある。1、馬の調練説(新編武藏風土記)。2、赤土などのねりば説(日本地名学研究)。3、古代宿駅説(続日本紀)。4、根沼説、石神井川低地は沼地で水田開拓の奥の沼、すなわち根の沼となったとするもの。(参考 練馬区の歴史 名著出版 昭和52)


練馬大根

元禄時代の本朝食鑑(平野必大 元禄9年)には、江戸近郊農村にはうまい大根がたくさんあるが、とりわけ練馬(根利間)や板橋、浦和の産のものが最高であると記されている。これは、関東ローム層上の黒腐触土が豊富な練馬地方の地味に根菜類がもっとも適していたとみられる。享保期に吉宗の農政改革のもと農作物の改良普及がすすめられ、練馬大根も改良されたといわれる。大正期に入ると練馬が大根の大量生産に力を注ぐようになった。北豊島郡の東部地域の市街化、工場化にともない、蔬菜供給地がさらに西部にへ移行し、この時代練馬の農家収入の七割か蔬菜に負っていた。大正7年豊島郡全域の大根作付けは1、324町歩、生産高は1、987万貫であった。そして 沢庵漬が盛んになった。7年の当時の主な村の生産は野方村79、400樽、杉並村15、400樽、赤塚村14、350樽、下練馬村36、000樽、石神井村15、000樽、中野村14、000樽、志村17、000樽、井荻村14、000樽で、この樽は四斗樽で重量は16貫(60キロ)あり、輸送が大変であったが、順次、交通機関(甲武鉄道、東上鉄道、武蔵野鉄道等)が開かれるとともに、販路が拡大し、中国、朝鮮、米国などへも輸出された。練馬大根の最盛期は大正初年から昭和10年頃で、昭和5年頃までに年間百万樽の生産に達した。戦後は経済統制や病虫害の大発生により練馬の大根生産は徐々に減少し、昭和40年代に入ると急激な農地の宅地化が進み練馬の大根生産は衰退の一途をたどった。昭和15年に愛染院(春日町4−17−1)の門前に練馬大根の名を後世に残そうと、写真の練馬大根碑が建立された。この礎石は沢庵漬の重し石で造られている。(参考 練馬大根 1 練馬区教育委員会 昭和59)

昭和初期の農家の大根干し風景と大根碑。「ねりま50年の移り変わり」より


8.少し行くと石神井川からの揚水(4−17、18)を千川に入れていた所(右岸)。北側の商店街にある西北への細い通路が目安で、練馬区都税事務所のあたり、ここに石神井川からの水路(助水)が通っていた。

9.練馬駅前の文化センター入口の五差路を少し行くと練馬駅の前で筋違橋(4−19、20) のあったところ。車や人通りがもっとも激しく、繁華なところであり、今日、地元の商店街の人達に尋ねてもほとんどの人は知らない。大和銀行の2、3店先の清水電器ビル(店はドラッグストア(4−21))前から、千川は北側の内田木材店(駅側)へ転ずる。

平成17年に練馬区によって、歩道のガードレールの間にオリジナルを復刻した写真のような千川上水の記念碑が建てられた。





この裏側に(4−19)は写真プリント板が付けられていて、「この石碑は、昭和30年までこの地にあった千川上水の筋違橋(すじかいばし)の親柱を復元したものです。写真は昭和15年頃の暗きょになる前の筋違橋(写真提供 武蔵学園)」と記されている。今日千川上水の痕跡を何も見ることが出来ない練馬駅前に、この記念碑が建てられたことにより、千川上水に関心をもつ人々が増えることを願いたい。千川上水の探訪の際は忘れずに見ていきたい。なんと云っても重厚な親柱を模したところが印象的。

この筋違橋の元に観音様(76、77)が祀られていたが、この橋観音は近くの大鳥神社の裏の東神社の境内に移設されている。

10.練馬駅の前方の練馬消防署の北側にあたるところに明治の中頃、千川から水を引いて(「豊玉水車分水」という人もいる)いた。これは矢島水車(現・豊玉上2−27付近)と呼ばれるもので、明治14年測量のものや、大正の地図にも水車記号が載っており、脱穀製粉等を業としていた。明治18年の「水車場箇所及び所有者人名調(東京都公文書館)」によると、中新井村二千三十番で、深野総左衛門、矢島弥平治とある。後にこの下流にも北島という人が水車を作ったといわれている。(参考 矢島寺と矢島氏 矢島英雄著 昭和52年)

11.桜台駅の手前交差点、みずほ銀行前に、もと三枚橋(三枚の石から出来ていたから)という橋があった。この付近の標高は39m前後で、グリーンベルトには、昭和62年5月に「千川通りに桜を植える会」によって桜の碑(4−28)が建てられていて、この南の果物店と隣の珈琲館の間の狭い路地を2番目の中新井分水が流れていた。明治10年の分水口は1寸5分四方で、1番目、3番目の分水ともで、田は11町を潤していた。この軒を接するような狭い路地を隔てて、ガラリと番地が変わる(豊玉上2丁目20番地と15番地)ところが歴史を物語っていると青果店の主人は語っていました。
ちなみに、この前の三枚橋を左に踏切を越えて行くと石神井川の正久保橋へ達し、ここには以前新井水車があった。ここの明治4年の奈羅実覚帳(ならのみおぼえちょう)には約1ヶ月にドングリ300余石を製粉していた記録があり、当時、ドングリを飢饉などの荒救食としていたことがうかがえるものです。農家の屋敷森にはブナ科(ドングリが実り、また落ち葉は堆肥になる)の木々が多く植えられていました。武蔵学園の校内にはかつて数軒の農家があり、この屋敷森であった幹まわり2〜3メートルに近いナラやコナラなどが残されています。

12.環状七号線の桜台陸橋の手前の南に都営バスの練馬車庫(4−29)がある。クリーンベルトに最近清戸道(明治以降の名称)の石碑と千川上水の説明板が建てられた。 清戸道とは文京区の江戸川橋北詰から西北へ五里、清瀬市中清戸にいたる片道3、4里の道で重要な農業生産道路であった。一番の難所は目白坂で、高さは約18メートル、道のり約250メートルの急坂で、上り下りとも人手を借りる(お金を取ってこれを手伝う立ちんぼうがいたといわれている。)ことが多かったという。

江戸中期から練馬の村々から江戸市中に農作物を売りに出かけ、戻りに下肥や糠を持ち帰った。野菜供給の出荷と農家経営に重要であった肥料の運搬に使われた道で、後に、一名、おわい街道とも呼ばれていた。
いわば江戸時代から続いてきた近郊農村の農産物生産と都市の出す肥料(屎尿処理)のリサイクルであったといえよう。
ちなみに東京の屎尿の処理に近郊や近県の農村地帯の果たした役割は大きく、特に戦中戦後は、大都会東京の屎尿処理は、これまで東京湾に投棄していたが、戦時下で燃料が使えなくなり、昭和19年から、東京都の懇請で、武蔵野鉄道、旧西武鉄道、食料増産会社の3社が一体となって電車輸送することになった。これは昭和28年3月まで続いたという。清瀬にもこれらの蓄溜場があったという。これは夜間に輸送し、一名、黄金電車とも呼ばれていた。(練馬区史 歴史編)。ともあれ、清戸道が、武蔵野鉄道が開通するまで大泉、石神井、練馬から市中に出る最短の道であり、練馬付近から豊島区に入るところまでは千川上水に沿っており、千川通りと清戸道は重なっているのである。
                                         
4−1 中村橋上流(昭和14年2月) 4−2 九頭竜弁財天
九頭龍竜を過ぎ、武蔵野線を左岸に見るに至ると、川と線路は平行し、川幅は次第に広く川は漸次浅くなる。
九頭竜弁財天はもと九頭龍橋のたもとにあったが、暗渠化により一時行方不明になったが、昭和49年現在地に祀られた。渡邊龍神、弘法大師、子庚申、馬頭観世音も祀られている。右手の昭和49年建立された石碑には由来が記されている。地元の人たちの信仰篤く供花が絶えない。
4−3 中村橋上流(昭和15年3月) 4−4 中村橋より(昭和15年3月)
中村橋上流。両岸に熊笹が密生し、桜が殊に数を増して、本格的の千川堤の桜となる。
中村橋駅南の中村橋より西を写す。この辺の川は大層深くV形をなしている。底は主として赤土。 沿岸には店舗が漸く現れ、中村橋駅付近では川幅は五米に達し、人家は粗密となる。
4−5 現・中村橋前の歩道橋より 4−6 中村分水と大山不動尊(昭和15年)
中村橋前の歩道橋から西(上流)に向かって写す。千川上水は桜並木のグリーンベルトの下を流れている(所々マンホールがある。)
 
中村橋駅のあたりから100メートル下ると中村分水の跡があり標柱が立っている。灌漑用水に用いられたもので、 昭和14年6月には未だ分水の穴が残っていた。分水の跡は幅1メートルぐらいの溝で、大山不動尊が道の分岐点にある。
4−7 現・大山不動尊 4−8 中村分水(昭和38年)
江戸時代に関東一円に広がっていた相模の大山信仰。武蔵北部から大山へ向かう一筋の道は練馬を起点にしており、今は富士街道の呼名で通っている。往時は大山は阿夫利(雨降)山と云われるように水分(みくまり)の神、すなわち農業の守護神として崇拝されていた。大山寺のお不動様または石尊大権現に参拝する道々に不動明王の石像が多く見られる。
 
「中村分水、南から千川通りに向かって写したもの。」「練馬区の昭和史」より。
4−9 中新井分水(昭和38年) 4−10 今日の中新井分水の跡(平成17年)
「中新井分水の水路。豊玉北6丁目、中村1丁目の境。北に向かって写す。」「練馬区の昭和史」より。
 
中新井分水と呼ばれる分水は3本あった。その1番目で、目白通りに出る手前、マッダパーキングとマンションの間を南に向かっている。もと中新井の池に合流していたが、明治16年12月に豊玉学校の開設のためこの池の埋立開墾の申請が出された。これにより学田(学田公園)と称された。中村分水もここに合流し、この池から中新井川に沿って開けていた水田を潤していた。明治14年の分水口は4寸四方
4−11 中村、中新井分水の合流点(昭和38年頃) 4−12 中新井川(昭和38年)
「旧溜池学田地域内」「練馬区の昭和史」より。橋の方が中村分水。  「環状七号線の橋上より西本村橋を望む。明治の頃、不動滝の橋と呼ばれた石橋であった。」「練馬区の昭和史より。」今日では、中新井川は中野区に入ると江古田川と呼ばれ、妙正寺川に合流し、やがて神田川に入る。
4−13 中村橋と練馬のあいだ(昭和15年) 4−14 練馬の宿の西(昭和15年)
中村橋、練馬両駅の中間付近。
 
板橋区中新井町3丁目(現・練馬区豊玉北)、昔の練馬の宿の西端。川の畔に日川地蔵尊 の堂宇が見える。左側の道路は椎名町から目白に通ずる。桜並木が街の中とはいえ、両岸に続いている。下流に向かって写す。
4−15 日川地蔵尊(昭和15年) 4−16 練馬の宿(昭和15年)
広い新道(現在の目白通り)を横断すると練馬の宿である。宿の入口には二六〇〇年(昭和15年)にできたばかりの日川地蔵尊がある。これは最近2、3年の間だけでも7人溺死した幼い 子供達の供養のために建てられたもので、微かに立ち上がる香煙と、ささやかな供物は行人の哀感をそそる。地蔵尊の縁日には人出が殊に多く露店が繁盛する。川幅2米、深さ1米半あまり。 地蔵尊はマンション建設にともない、昭和61年に南蔵院(練馬区中村1丁目)境内に移設され、墓地入口の左手に2体安置されている。 道路と川を挟んで両側に並んだ店舗は、川に板をはりつめて道路への出入り便し、 水上のスペースを利用して商売している。
 
4−17 練馬駅付近(昭和15年) 4−18 石神井川の助水、境界石(昭和15年)
武蔵野線(現・西武池袋線)練馬駅付近、板橋区中新井町3丁目(現・練馬区豊玉北)、左側が道路。 川の両岸にはコンクリートの護岸工事が施してあるが、右側の商家は各自川の上に板で張出しをして通路や物置に利用している。 日川地蔵と筋違橋とのほぼ中間の地点では、一清流が豊島園の方面から千川に流入する。これは石神井川を揚水して千川に合流せしめる水路で、明治以来下流の工場の用水としての、千川の水量不足を補うためのものである。従って当然千川はこの下流から水量が増加する。 左記の写真に子供達が集まっていたところ。石神井川からの揚水のホンプのコックの ようなものがあった。(後ろには千川の境界石(現在数えるほどしか残っていない)がたくさん積まれている。平成8年4月に記念室で「千川展」を開いたとき、地域の多くの人達が見学に来られたが、その中に写真に写っている子供は自分であるという人がいて、そこの場所は小魚がよく集まり、子供達のかっこうの遊び場でもあったという。)
 
4−19 練馬の繁華街と筋違橋(昭和15年) 4−20 反対側から見た筋違橋(昭和15年)
板橋区中新井町三丁目(現・練馬区豊玉北)、武蔵野線(現・西武池袋線)練馬駅付近。丁度練馬の街の中央部で川が道路の南側から北側に移る。 コンクリートの筋違橋を架してある。写真は上流に向かって写した。橋畔の小さい堂宇が昔の面影を残している。この辺は練馬では最も繁華なところである。桜の枝の後ろの看板は「清水電気」となっている。 先に記した千川上水の記念碑の一部にこの写真を金属板にプリントされたものが近々立てられる計画がある。 筋違橋を反対側から見たところ。写真の堂宇は橋供養正観音(安永3年)で、橋の完成と人馬の延命を祈願したものという。今はここから数分先の巣鴨信用金庫の南を右折したおとり様商店街を行くと練馬大鳥神社(豊玉北5−18)で、この南西側の心きよめ苑東神社の入口左手に安置されているが、説明文は古くなってすっかり読みにくくなっている。
 
4−21 同所の現在の姿 4−22 練馬駅付近(昭和27年)
先年まで上記の写真(60)の清水電器店が残っていたが、今は清水電気ビルは薬局になっている。練馬駅側から写す。 戦後の昭和27年の練馬駅の付近。「ねりま50年の移り変わり」より。この当時武蔵中学生で、練馬の目白通り近くで、当時、家でパン屋さんをしていたOBに見てもらったところ、橋は練馬駅前のもので、大きな建物は消防署、写真には写っていないが南隣が警察署。千川に沿って、奥から、消防署、不動産屋、ソバ屋(本橋家)、二葉屋文具店、埼玉銀行(後に中村橋方向へ移転)、練馬駅前バス停となるという。
4−23 練馬駅の下流(昭和14年2月) 4ー24 板橋区南町(練馬〜桜台 昭和15年3月)
練馬駅の下流で千川が素掘の様子がわかる。大雨で急激に増水したり、堤が削られたりして川幅が広がったり したことが想像される。こうなると境界石(70)の必要性が理解できる。 練馬駅の下流
4−25 同南町(桜台付近)(昭和15年3月) 4−26 同南町3丁目(桜台)(昭和15年)
練馬駅の下流500メートル付近。
板橋区練馬南町3丁目、昔の練馬の宿の東端。上流に向って写す。北側には場末らしい家並が続き、南側は近頃開けて畑が次第に潰され、図にあるような新築の売住宅などが増加して来た。
4−27 中新井分水(桜台)(昭和38年)4−28 桜台駅前の桜の碑
第2番目の中新井分水。「千川上水弁天分水(市杵島神社(いつくしま、豊玉北2−17)側の分水路)。桜台駅の南側、清戸道(現在の千川通り)の南、角の青果店と理髪店の間に分水口(旧三枚橋)があった。「練馬区の昭和史」より。この辺りは昭和28年頃に暗渠化された。桜台駅前のグリーンベルトには、昭和62年に「千川通りに桜を植える会」によって 桜の碑が建てられた。この南側コジマ青果店と珈琲館との間の細い路地にマンフォールが連なっているが、これが第2番目の中新井分水で、桜台分水、弁天分水とも呼ばれた。(明治10年で分水口は1寸5分四方、14年、前記、同潤社への分水のため5分四方減)が現・豊玉第二小学校の下を通って現・中新井公園をこえて南流し中新井川周辺の田を潤していた。
4−29 東京環状乗合(昭和17年) 4−30 木炭車について(昭和15年)
桜台駅と武藏学園のほぼ中間に黄バス(東京環状乗合、昭和17年2月に東京市営バスに統合された)の車庫がある。現在は都バスの練馬車庫で、新宿西口からの路線の終点になっている。この付近が暗渠化されたのは昭和28年2月頃。
 
「燃料報国木炭車」と書かれている。ちなみに東京に木炭車が登場したのは昭和13年1月で、この改造方式は7種類あった。これは前年の盧溝橋事件から準戦時体制となり、石油が統制され、外国車が輸入出来なくなったため、木炭車が主力となった。16年には東京市営バスで1、981輌あった。これは全車輌の75%をしめた。(参考『東京都交通局60年史』)


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