武 蔵 墨 跡 展 |
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根津嘉一郎像沼田一雅作高さ93cm |
光 陰 可 惜 歳 月 不 待 人壬申秋 青山題[出]光陰可惜譬諸逝水(顔氏家訓 勉学) [出]盛年不重来 一日難再晨乃時当勉励 歳月不待人(陶潜 雑詩) (盛年を重ねては来たらず、一日再びは晨し難し時に及んでは当に勉励 すべし、歳月人を待たず) [意]光陰惜しむ可し歳月人を待たず(歳月は一瞬の間も待ってはくれない。 生きる時間を大切にしたい。) [寸法]額 横170p、縦50p 昭和7年武蔵高校開校10周年の年に揮毫されて学校に寄贈されたもの。 |
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根 津 嘉 一 郎 翁 壽 像昭和 七 年 三月 建 設 昭和三十五年十一月再建 壽像制作者日展審査員 圓鍔勝三[寸法]軸 横一〇〇p、縦二三〇p |
根 津 翁 略 歴根津嘉一郎翁ハ山梨縣ノ人資性剛毅少クシテ儒者馬杉雲外 ニ學ビ夙ニ志ヲ國事ニ留ム初メ縣政ニ携ハリシガ壮年出デ テ身ヲ実業界ニ投ズ一生獨立自主経営スル所ノ事業大小二 百有餘細心業ニ當リ豪膽事ヲ処シ機知縦横善ク功ヲ収ム特 ニ力ヲ鐵道麦酒保險ノ業ニ用ヒ我ガ交通産業ニ貢獻スルト コロ大ナリ翁常ニ郷土ノ開発ニ努メ巨財ヲ投ジテテ笛吹川 ニ架橋シ多年京濱山梨縣人連合会長ノ任ニ在ツテ後進ヲ誘 掖ス又人材ノ養成ヲ計リテ財団法人根津育英会ヲ興シ武蔵 高等学校ヲ創設ス衆議院議員ニ選バルルコト四タビ後ニ勅 選ヲ以テ貴族院議員ニ列シ勲二等ニ陞敍セラル晩年壮心ナ ホ已マズ同志ト相謀リ南米ニ航シ帰来病ンデ家ニ卒ス時ニ 昭和十五年一月四日享年八十一特旨ヲ以テ正五位ニ敍セラ ル翁平生茶道ヲ嗜ミ美術ヲ愛好シソノ蒐集セル古書畫器物 悉ク天下ノ名寶タリ卒スルニ先ダチ之ヲ擧ゲテ根津育英会 ニ寄附シ美術館ノ開設ヲ見ルニ至ラシム嗚呼翁ヤ功業ヲ今 世ニ遺スコト大恵澤ヲ後代ニ及ボスコト遠シソノ卓行偉績 實ニ一世ノ巨人ト謂フベシ 宮島清次郎撰 矢代源司書[寸法]軸 横一五〇p、縦二六〇p |
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聖 可 積 而 致梁舟喜(花押)[出]聖は積みてきわむ可し(荀子 性悪説二三) [意]聖人の地位といえども、凡人が善を積み重ね極め 尽くすことによって到達し得る境地である。 [寸法]額 横170p、縦60p |
好 学 近 乎 知梁舟喜 (花押)[出]学を好むは知にちかし(礼記 中庸篇) [意]学問を好むということは、未だ知とはいわれぬ けれども、知に近づいた者である |
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聲無小而不聞行無隠而不形梁舟喜(花押)[出]聲は小として聞こえざること無く、行いは隠として |
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有 文 事 者 必 有 武 備臣 山川健次郎大正三年八月四日日光御用邸へ出頭し天機並にご機嫌を 奉伺したるに両陛下に拝謁を賜りたる後侍従長鷹司通予 に書を上るべき旨の勅命を傅ふ同年八月廿二日予宮中へ 出頭して拙筆『視民如傷』を献納す大正四年八月比月日 確かならず)内大臣大山巌又予に書を上る可き勅命を傅 ふ前に既に上りしことを遣忘し賜ひしものの如し依って 『有文事者必有武備』の八字を認め九月十六日之を献納 す拙筆を上りし顛末別帋の通りにご座候 敬具 昭和四年七月八日 健次郎 [出]文事ある者必ず武備あり(孔子世家、春秋戰国 魯) [意]文を事とする者は武も身につける。平和を議する ことは文事であるが、同時に武備を忘れてはなら ない。斉の景公との「夾谷の会」におもむく定公 に云った孔子の言葉といわれている。 [寸法]軸 横六八p、縦二一六p |
佩 章 授 與 訓 辞昭和五年卒業式の時昔武士は大小二タ腰を佩びて居り之を武士の魂と云っ たものだ此の大小は之を佩びて居る人に君は武士と云 ふ特権階級の人であるから卑怯な事等凡て武士にある まじき振舞があってはならんと常に警告したかの如く であったので武士が己が佩び居る両刀を見ると心がひ きしまり体度(態度)を謹む念慮が起り当人がどの位 利益を得たか知れん魂は今の辞(言葉)で云ふと良心 で大小が良心を呼び起す如き働きをしたのであった我 が校の佩章も亦佩章(を)する人々に本校の一員たる ことを警告すること武士の両刀と異なることがないか ら本日佩章を授與された人々は今後一層言動を慎み利 益をえらるること必然と信ずる。 全 |
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視 民 如 傷臣山川健次郎謹書民をみること傷つくがごとし。 |
山川健次郎校長書簡
この書簡は元教授長崎太郎が本校の讃歌を作詞 |
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一 日 不 作 一 日 不 食百丈和尚語 晁水拝書[出]一日なさざれば一日くらわず(祖堂集、百丈廣録) |
躍 魚 於 物 濯 水 渕積 翠 園 頭 鳶 戻 天道 在 児 童 嬉 戯 裡弘 恢 要 識 頼 先 賢休祉正月 破爪翁 晁水昭和九年、六四才のときの慎独寮に於いての新年試筆。 |
有 隣恩軒[出]「徳不孤必有隣」(論語 里仁) |
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人 常 咬 得 菜 根 則 百 事 可 做折邨書[意]宋の汪信民の言葉、菜根を咬み得れば百事 |
菜 根 図玉水逸民 写 印玉水(湯田祐印)湯田玉水(明治12年〜昭和4年4月2日)福島県会津田島 町の生まれで、名は和平、もと山川健次郎の書生をしていた。 別号会津山人。明治三六年(二五才)のとき上京し、川端玉章に ついて円山派を学び、その後南画に転じ、南画院同人となり、昭和 二年第8回帝展のとき帝展審査委員に推された。玉水は瓢逸洒脱の 性格であったので、画はそのような作品が多く残された。五一才で 没。代表作「雨過晴虹図、杜若の図、夏山雨後図」(福島県文化 センター美術館、歴史資料館所蔵) |