武  蔵  墨  跡  展



武蔵学園記念室編   最新更新:2010.10.05



ここでは主に旧制武蔵高等学校の創立関係者の墨跡と略伝を収録しています。








根津嘉一郎(ねづ かいちろう 号青山)


武蔵高等学校創立者

(万延元(1860)年6月15日〜昭和15(1940)年1月4日)
甲斐国東山梨郡聖徳寺村の根津嘉市郎(藤右衛門)の二男として出生。幼名は栄次郎。明治13年東京に出て漢学者馬杉雲外
の門に入る。22年平等村々会議員。24年山梨県々会議員。26年有信貯蓄銀行設立。32年東京電燈監査役。35年東京
市街鉄道設立。37年衆議院議員に当選、以後4回当選。38年東武鉄道社長。39年東京鉄道取締役。館林製粉社長。41
年日清製粉社長。42年啓成社設立。渡米実業団に加わり、米国各地を視察。43年富士身延鉄道設立。東京米穀商品取引所
理事長。武蔵電気鉄道設立。44年東京商工会議所会頭。啓成社社長。東上鉄道を設立し社長。朝鮮煙草を設立し社長。45
年高野山鉄道社長。大正6年日本工業倶楽部評議員・理事。高野大師鉄道を設立し社長。7年初陣の茶会を催す。8年日出セ
メントを設立し社長。東京紡績を設立し社長。9年東京地下鉄道を設立し取締役。根津合名会社を組織し代表社員。11年南
海鉄道、西武鉄道、秩父鉄道各取締役。12年秩父セメントを設立し監査役。富国徴兵保険相互会社を設立し社長。太平生命
保険、昭和火災を買収す。郷里笛吹川に鉄筋コンクリート製の根津橋を架設す。山梨高等工業学校敷地寄付。山梨女子師範学
校及び高等女学校敷地寄付。14年松屋呉服店取締役。15年鉄道同志会会長。大社宮島鉄道を設立し社長。国民新聞社を株
式組織とし百六十万円を投ずる。貴族院議員に勅選さる。昭和2年南朝鮮鉄道を設立し社長。東京地下鉄道取締役、後に社長。
7年山梨県の郷里平等村の笛吹川の根津橋畔万力公園に寿像が建てられる(戦時中に軍に供出)。8年山梨県下各小学校へピ
アノ、人体模型、顕微鏡、ミシンを寄付。ユニオンビールを経営し、エビスビールを合併。9年社会教化、思想善導のため埼
玉県朝霞に大寺院を建立せんとして大梵鐘鋳造式を挙行する。その後戦争の激化のため大仏の鋳造は中止のやむなきに至り、
大梵鐘も後にこれを鋳潰して陸軍に供出。10年日本実業協会会長、14年7月親善使節として南米ブラジル、ウルグアイ、
アルゼンチン各国を訪問し、10月帰朝。
明治から昭和にわたる財界の巨頭として、二十数種の事業に関係した。財団法人根津育英会を設立し、大正10年9月〜昭和
15年1月まで理事長、360万円を寄付して、武蔵高等学校を創設した。また、東洋古美術の愛好収集家としても著名であ
ったが、没後の昭和15年11月25日「財団法人根津美術館」が認可され、東京青山の邸宅内にそのコレクションをもとに
根津美術館が設立された。昭和35年に生誕百年を記念して、山梨市万力公園に寿像が再建された。
文献:世渡り体験談 根津嘉一郎著 実業之日本社 昭和13 248p.根津翁傳 根津翁伝記編纂会 昭和36 484p.  根津嘉一郎 宇野木忠著 東海出版社 昭和16 279p.* 詳細な文献は次を参照してください。 根津嘉一郎 人物文献目録




根津嘉一郎像

沼田一雅作
高さ93cm

光 陰 可 惜 歳 月 不 待 人

            壬申秋  青山題

[出]光陰可惜譬諸逝水(顔氏家訓 勉学)
[出]盛年不重来 一日難再晨乃時当勉励 歳月不待人(陶潜 雑詩)
   (盛年を重ねては来たらず、一日再びは晨し難し時に及んでは当に勉励
    すべし、歳月人を待たず)
[意]光陰惜しむ可し歳月人を待たず(歳月は一瞬の間も待ってはくれない。
   生きる時間を大切にしたい。)
[寸法]額 横170p、縦50p
 昭和7年武蔵高校開校10周年の年に揮毫されて学校に寄贈されたもの。







武蔵高等学校創立者根津嘉一郎を顕彰した銅像の石碑文の拓。銅像は山梨県山梨市の根津の出生地に近い
笛吹川のほとりの万力公園に戦前に建立されたものが、戦時中に軍に供出され、生誕100年を記念して
昭和35年に銅像が再建された。

根 津 嘉 一 郎 翁 壽 像

昭和 七 年  三月 建 設

昭和三十五年十一月再建

壽像制作者日展審査員 圓鍔勝三


[寸法]軸 横一〇〇p、縦二三〇p

   根 津 翁 略 歴


根津嘉一郎翁ハ山梨縣ノ人資性剛毅少クシテ儒者馬杉雲外
ニ學ビ夙ニ志ヲ國事ニ留ム初メ縣政ニ携ハリシガ壮年出デ
テ身ヲ実業界ニ投ズ一生獨立自主経営スル所ノ事業大小二
百有餘細心業ニ當リ豪膽事ヲ処シ機知縦横善ク功ヲ収ム特
ニ力ヲ鐵道麦酒保險ノ業ニ用ヒ我ガ交通産業ニ貢獻スルト
コロ大ナリ翁常ニ郷土ノ開発ニ努メ巨財ヲ投ジテテ笛吹川
ニ架橋シ多年京濱山梨縣人連合会長ノ任ニ在ツテ後進ヲ誘
掖ス又人材ノ養成ヲ計リテ財団法人根津育英会ヲ興シ武蔵
高等学校ヲ創設ス衆議院議員ニ選バルルコト四タビ後ニ勅
選ヲ以テ貴族院議員ニ列シ勲二等ニ陞敍セラル晩年壮心ナ
ホ已マズ同志ト相謀リ南米ニ航シ帰来病ンデ家ニ卒ス時ニ
昭和十五年一月四日享年八十一特旨ヲ以テ正五位ニ敍セラ
ル翁平生茶道ヲ嗜ミ美術ヲ愛好シソノ蒐集セル古書畫器物
悉ク天下ノ名寶タリ卒スルニ先ダチ之ヲ擧ゲテ根津育英会
ニ寄附シ美術館ノ開設ヲ見ルニ至ラシム嗚呼翁ヤ功業ヲ今
世ニ遺スコト大恵澤ヲ後代ニ及ボスコト遠シソノ卓行偉績
實ニ一世ノ巨人ト謂フベシ 

               宮島清次郎撰 矢代源司書


 [寸法]軸 横一五〇p、縦二六〇p








宮島清次郎(みやじま せいじろう)







(明治12(1879)年1月20日〜昭和38(1963)年9月6日)
栃木県安蘇郡植野字飯田で小林庄太郎の二男として出生。明治35年第四高等学校卒業。同年東京帝国大学政治科
入学。この頃犬養木堂と知り合い政治家を志すが、実業家になることを勧められる。39年同卒業、住友別子鉱業
所入社。43年宮島家を継ぐ。東京紡績に入社、大正3年日清紡専務取締役。6年加富登麦酒監査役。8年日清紡
社長。9年日本工業倶楽部理事。10年英米訪問実業団に参加。11年東京市会議員。12年東京紡績監査役。
昭和8年日清レイヨン社長。大日本麦酒監査役。13年国策パルプ工業社長。15年日清紡績会長。18年日本工
業倶楽部専務理事。22年同理事長。24年日銀政策委員。戦後の日本の財界のとりまとめ役として活躍し、吉田
茂に池田勇人を紹介し、後に池田内閣を誕生するきっかけとなった。財界では有能な財界人達を育てたことでも知
られ桜田武等の財界四天王と呼ばれる人達はその典型である。

大正10〜昭和26年根津育英会理事。15年根津美術館理事。26〜38年根津育英会理事長。34年根津美術館
理事長。根津嘉一郎の終生の友人として、正田貞一郎と共に武藏高等学校の創設時から協力し、根津亡き後、後を継
ぎ武藏高等学校の経営、終戦直後のインフレにみまわれた学園の財政面の問題に意を尽くした。このような状況から
昭和24年の武蔵大学の新設にあたつては経営面から一時反対することもあったが、単学部大学として開設された後
は一層学園経営に尽力した。死後、遺産が学園に寄付され、宮島基金と称された
文献:思い出のまま 宮島清次郎著 日清紡績 昭和22 179p.思い出の記 続 昭和24 132p.    宮島清次郎翁伝 宮島清次郎翁伝刊行会 昭和40 589p. * 詳細な文献は次を参照してください。 宮島清次郎 人物文献目録


矢代源司(やしろ げんじ)

(明治43(1910)年4月2日〜平成11(1999)年3月18日)
昭和3年旧制武藏高等学校職員となる。のち同事務長等を歴任。書家。中村素堂門下の高弟でもあり、武藏高校、武蔵
大学で書道を教授した。号 素川。









一木喜徳郎(いっき きとくろう 号梁舟)





武蔵高等学校初代校長
(慶応3(1867)年4月4日〜昭和19年2月17日)
静岡県小笠郡倉真村岡田良一郎(淡山)の二男として出生。長兄は岡田良平。明治6年一木家の養子となる。16年
東京帝国大学文学部入学、19年法科大学に編入、20年大学卒業。県治局勤務。23年内務書記官。自費独逸留学。
26年帰朝し復職。27年法科大学教授。32年法学博士。35年法制局長官兼恩給局長。39年帝国学士院会員。
41年内務次官。大正3年文部大臣。4年内務大臣。6年枢密顧問官、臨時教育会議委員。8年臨時教育委員会副総裁、
男爵。9年皇典講究所(國學院大学)所長。14年宮内大臣。昭和9年大日本報徳社社長、枢密院議長。11年内大臣。
大正10年12月〜昭和元年4月武蔵高等学校初代校長、昭和15〜19年根津育英会理事長、昭和17〜19年名誉
校長。文献は次を参照してください。一木喜徳郎 人物文献目録


聖 可 積 而 致

             梁舟喜(花押)
[出]聖は積みてきわむ可し(荀子 性悪説二三)
[意]聖人の地位といえども、凡人が善を積み重ね極め
      尽くすことによって到達し得る境地である。
[寸法]額 横170p、縦60p

好 学 近 乎 知

             梁舟喜 (花押)
[出]学を好むは知にちかし(礼記 中庸篇)
[意]学問を好むということは、未だ知とはいわれぬ
      けれども、知に近づいた者である
[寸法]額 横165p、縦52p








聲無小而不聞行無隠而不形

               梁舟喜(花押)

[出]聲は小として聞こえざること無く、行いは隠として
形はれざるは無し(荀子 勧学編 第一) [意]音声はどんなに小さくても、人に聞こえないわけは
なく、行為はどんなに微かでも世の中に現れないこ
とはない。武蔵高校三期久保正幡氏より学園へ寄贈
されたもの。
[寸法]軸 横五七p、縦二一〇p

















山川健次郎(やまかわ けんじろう)


武蔵高等学校第2代校長
(安政元(1854)年7月17日〜昭和6年6月26日)







会津若松の山川重固の三男として出生。若年にして会津戊辰戦争を体験した。明治3年東京の 斗南藩学にて英学を学ぶ、明治政府の留学生に選ばれ米国留学。5年エール大学で土木工学を 専攻して卒業。8年帰国。9年東京開成学校の物理学教授補。14年東京帝国大学教授、我が 国における初めての物理学教授となる。19年理科大学教授。21年理学博士。30年高等教 育会議議員。34年東京学士会院会員、東京帝国大学総長。36年東京帝国大学名誉教授。 37年貴族院議員に勅選さる。40年私立明治専門学校(現・九州工業大学)総裁。44年 「千里眼」実験のため九州へ赴く、九州帝国大学総長。大正2年東京帝国大学総長再任(大正 9年まで)。3年兼任京都帝国大学総長。4年男爵、5年学習院評議会会員、6年臨時教育会 議委員、財団法人理化学研究所顧問。12年枢密顧問官等を歴任。 大正10年〜昭和6年根津育英会顧問、大正15年4月7日〜昭和6年3月10日武蔵高等学 校第2代校長。著述多数に及ぶ。我が国の学術、教育界の大御所として近代教育制度の改革に 貢献した。時評的な講演や著述は現代から見ても先進性に富んだものが多く、すぐれた社会評 論家であった。功なり名をとげた最晩年、一私学の高等学校である武蔵の校長に就任したのは、 創立者根津嘉一郎が会津を訪れ白虎隊兵士墓地を詣でたさい、その荒廃にいたく心を痛め、発憤 して、墓地の修復運動に尽力した結果墓地の修復がなったこともあり、これを恩義に感じていた 山川は、根津に校長就任を請われさい、これを断ることができなかったと述べている。 武蔵では、謹厳な人格と独特の風貌から日本最後の武士とも称された。生徒に自身の若い時の 米国留学体験談(山川老先生六十年前外遊の思出 昭和5年)や武人の心得(佩章訓辞) を語り、生徒達に心を尽くして接したことで、生徒や教職員から慕われた。 文献:男爵山川先生遺稿 男爵山川先生記念会 昭和12 778p.    男爵山川先生伝 花見朔己編 故男爵山川先生記念会 昭和14 530p. * 詳細な文献は次を参照してください。山川健次郎 人物文献目録

山川先生肖像画(油絵 25号) 安宅安五郎作 大正15年。普段は講堂演壇上方の南側に掲額されている。
山川先生寿像(銅牌)と佩章 寿像は日名子実三作、昭和6年1月。 教職員と生徒の有志が寄付を募って、山川先生に贈ったもの。平成8年に先生の令孫にあたられる方から 学園記念室に寄贈された。いわば65年ぶりに母校に里帰りしたもの。大きさ木枠とも、縦45cm、横37cm。 となりのミニチュアは有志に頒布されたもので、矢代源司氏より寄贈されたもの。佩章は次の佩章訓辞を参照。


有 文 事 者 必 有 武 備

          臣 山川健次郎

大正三年八月四日日光御用邸へ出頭し天機並にご機嫌を
奉伺したるに両陛下に拝謁を賜りたる後侍従長鷹司通予
 に書を上るべき旨の勅命を傅ふ同年八月廿二日予宮中へ
出頭して拙筆『視民如傷』を献納す大正四年八月比月日
確かならず)内大臣大山巌又予に書を上る可き勅命を傅
ふ前に既に上りしことを遣忘し賜ひしものの如し依って
『有文事者必有武備』の八字を認め九月十六日之を献納
す拙筆を上りし顛末別帋の通りにご座候  敬具
 昭和四年七月八日    健次郎
[出]文事ある者必ず武備あり(孔子世家、春秋戰国 魯)
[意]文を事とする者は武も身につける。平和を議する
      ことは文事であるが、同時に武備を忘れてはなら
      ない。斉の景公との「夾谷の会」におもむく定公
      に云った孔子の言葉といわれている。
[寸法]軸 横六八p、縦二一六p

佩 章 授 與 訓 辞

        昭和五年卒業式の時

昔武士は大小二タ腰を佩びて居り之を武士の魂と云っ
たものだ此の大小は之を佩びて居る人に君は武士と云
ふ特権階級の人であるから卑怯な事等凡て武士にある
まじき振舞があってはならんと常に警告したかの如く
であったので武士が己が佩び居る両刀を見ると心がひ
きしまり体度(態度)を謹む念慮が起り当人がどの位
利益を得たか知れん魂は今の辞(言葉)で云ふと良心
で大小が良心を呼び起す如き働きをしたのであった我
が校の佩章も亦佩章(を)する人々に本校の一員たる
ことを警告すること武士の両刀と異なることがないか
ら本日佩章を授與された人々は今後一層言動を慎み利
益をえらるること必然と信ずる。 全
[寸法]軸 横三四p、縦八八p






視 民 如 傷

     臣山川健次郎謹書
 民をみること傷つくがごとし。
[出]国之興也、視民如傷、是其福也(左氏 哀元)
[出]文王視民如傷(孟子 離婁下)
[意]人民が傷ついた者を見るように深く民をあは
れみ愛すること。
[寸法]軸 横四一p、縦一二八p


山川健次郎校長書簡


御書面忝令披見候拙生病気御心に掛けさせられ
候段奉深謝候軽病には候へ共少し許の發熱有之
又食欲も頗る減退いたし候間医師の勧めにより
静養いたし居候御歌拝見仕候結構なる御詠と存
候 昭和二年三月四日 健次郎
長崎盟兄 待史中
この書簡は元教授長崎太郎が本校の讃歌を作詞
し、山川校長に送った折の返書である。
[寸法]軸 横六〇p、縦一三〇p










山本良吉(やまもと りょうきち  号晁水)


旧制武蔵高等学校初代教頭、第3代校長
(明治4年10月10日〜昭和17年7月12日)

金沢の金田基之の三男として出生。明治21年第四高等中学校予科卒業。27年山本家の養子となる。
28年東京帝国大学文科哲学科(選科生)終了。29年京都府尋常中学校教諭。30年静岡県尋常中学
校教諭。33年京都府第二中学校教諭。41年京都帝国大学学生監。42年兼任第三高等学校教授。
大正7年 学習院教授。9年欧米旅行(学生生活状況調査)。11年武蔵高等学校教授・教頭。昭和6年
校長事務取扱。10年東京市視学委員。11年2月13日〜17年7月12日武蔵高等学校第3代校長。
武蔵高等学校の創立当初より、学校教育方針の実務的な指導者として、その後の武蔵の教育の方向を確
立した。北条時敬の門下で、同門の西田幾多郎鈴木大拙とは終生変わらぬ友情で結ばれた。文筆を得
意とされ、学内外で多数の著述をものにされた。漢詩にも造詣が深く、学園(記念室)に数多くの墨跡
を残されている。最近令孫にあたられる方々から、かって愛用されていた三十数点に及ぶ印章が学園に
寄贈された。ここでは代表的な墨跡2点を収録した。
文献:晁水先生遺稿 内田泉之助編 故山本先生記念事業会 昭和26 568p.晁水先生遺稿続編
   川崎明編 矢代源司 昭和41 843p.* 詳細な文献は次を参照してください。
山本良吉 人物文献目録



一 日 不 作 一 日 不 食

        百丈和尚語 晁水拝書
[出]一日なさざれば一日くらわず(祖堂集、百丈廣録)
[意]百丈不作不食(ひゃくじょうふさふじき)とよば れる。空しく佛飯を費やさないこと。唐の禅僧百丈懐海は 『百丈清規』で禅林の規矩を定めたことで知られているが、 清規の規定を厳守し、自らも入寂の日まで作務勤労に参加 して怠るところなかった。監寺が老齢の禅師に休止をもと めたが、聞き入れない。心配のあまり作務の道具を隠して しまたところ、百丈はその日一日休息したが、また終日 食事をとらなかった。雲水行持の活訓とされている 。
[寸法]軸 横98p、縦210p

躍 魚 於 物 濯 水 渕

積 翠 園 頭 鳶 戻 天

道 在 児 童 嬉 戯 裡

弘 恢 要 識 頼 先 賢

     休祉正月  破爪翁 晁水
 昭和九年、六四才のときの慎独寮に於いての新年試筆。
[寸法]軸 横140p、縦240p











原田亨一(はらだ きょういち)

(明治30年1月6日〜昭和13年1月31日)
大正12年第六高等学校文科卒業。15年東京帝国大学文学部国史科卒業し、同大学院入学。昭和2年武蔵高等
学校教授。 国史担当  恩軒は自身のニックネームのオンケルにちなんだ雅号。著書に「近世日本演劇の源流」
(昭和3)がある。

有   隣

    恩軒

[出]「徳不孤必有隣」(論語 里仁)
[意]とくはこならず かならずとなりあり
道徳のある者は孤立しない。必ず親しいなかまが
できる。
[寸法]軸 横46p、縦197p








山川 黙(やまかわ しずか)


(明治19年7月26日〜昭和41年2月11日)


武蔵高等学校教授 担当:理科、生物 第4代武蔵高等学校校長



河田家二男として東京に生まれる。のちに山川操権掌待(山川健次郎令姉)の山川家を継がれる。大正
2年東京帝国大学理科大学植物学科卒業。のち京北中学教諭、慶応義塾大学予科教授等を歴任。13年
武蔵高校教授。昭和17年8月校長。21年2月退職。主な著書に「原色蝶類図」(昭和4)、「原色
貝類図鑑」(昭和28)、「原色日本高山植物図鑑」(昭和29)等がある。また登山家でもあり、
日本近代登山の開拓期に活躍し、日本山岳会を創設したメンバーの一人にもなっている。
 

賓 寮

この木額は欅材で、寸法横90p、縦47pは軽井沢にあった旧青山寮玄関に掲げられていたもの。
篆刻を実兄の河田烈(いさか)氏(元大蔵大臣、中井敬所の高弟)の手ほどきにより学ぶ、作品は
鵜原寮(千葉県勝浦市鵜原)にも残されている。また山本良吉校長の印など多くの印を篆刻された。







中村不折(なかむら ふせつ)



(慶応2年7月10日〜昭和18年6月6日)洋画家、書家 明治34年フランスへ留学しジャン・
ポール・ローランスに師事。太平洋美術学校の校長。書は当時六朝風と称した北碑の書風を学び、
独特の個性を強調した。多年にわたり碑版、法帖の蒐集につとめた。昭和11年東京根岸の自邸に
「書道博物館」を設立。日本芸術院会員。



人 常 咬 得 菜 根 則 百 事 可 做

            折邨書
[意]宋の汪信民の言葉、菜根を咬み得れば百事
做すべし、人は貧窮の中に大事をなす素地が
出来ること。後に、明の洪自誠はこの言葉か
ら取って『菜根譚』を著した。
[寸法]軸 横81p、縦200p

菜 根 図

     玉水逸民 写 印玉水(湯田祐印)
湯田玉水(明治12年〜昭和4年4月2日)福島県会津田島
町の生まれで、名は和平、もと山川健次郎の書生をしていた。
別号会津山人。明治三六年(二五才)のとき上京し、川端玉章に
ついて円山派を学び、その後南画に転じ、南画院同人となり、昭和
二年第8回帝展のとき帝展審査委員に推された。玉水は瓢逸洒脱の
性格であったので、画はそのような作品が多く残された。五一才で
没。代表作「雨過晴虹図、杜若の図、夏山雨後図」(福島県文化
センター美術館、歴史資料館所蔵)
この絵は山川健次郎校長より、中村不折書「人常咬得菜根則百事奄 可做」とともに寄贈されたもので、かっては慎独寮(学寮)の食堂 に架けられていたも。山川先生は「菜根譚」を好まれ、富岡鐵斎に描 いてもらったこともあった。
[寸法]軸 横81p、縦200p

                      

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